だって“アナタ”が懐かしむ昭和の時代にも、理不尽な扱いに悩み、誰に話すこともできず、ひたすら耐え、中には耐えきれずに会社をひっそりと辞めていった人だっているかもしれないわけで。
 どれだけ私の小さな脳みそをグルグルさせても、「死ね」という暴言と「指導」がま~ったく結びつかない。

 そもそも社員は、会社に労働力は提供しても、人格を預けたわけじゃない。
 社長だろうと、上司だろうと、大先生だろうと、たとえ親だろうと、
 「死ね」だの、「生きてる価値がない」だのの罵詈雑言は、許されないでしょ。
 そこに「ミス」が存在しようとなんだろうと、虐待は虐待。

 そうなのだ。
 「パワハラ」という言葉に集約するからややこしくなる。
 子どものイジメ問題で、明らかな暴行を「イジメ」と称するのと一緒だ。

 「秘書に対する虐待」「従業員に対する虐待」。蹴る、殴る、死ね、などは、すべて「虐待」であり、「仕事の改善」につながる文言が一切含まれない暴言は、パワハラを超えたむしろ犯罪に近い行為。

 「指導」の根っこにあるものが、「部下教育」であるのに対し、「虐待」には感情しか存在しない。

 もちろん「指導」が目的でも、人が人である以上、大きな声を出してしまったり、嫌味を言ってしまうこともあるかもしれない。感情を抑え切れず、ついイライラをぶつけてしまうことだってある。

 一方で、こんな悩みが生まれて久しい。

 「業務上で厳しいことを言われた程度で、パワハラと騒がれちゃうんですからねえ。おかげで、部下の指導をいやがる管理職が増えてしまった」

 こう嘆くのは、50代の部長さんだ(男性)。

 というわけで、前置きが長くなった。今回は「指導とパワハラの境界線が曖昧なワケ」について、アレコレ考えてみようと思う。

 部長さんの嘆きを続けよう。

受け手の意識でパワハラ認定、腑に落ちない

 「うちの職場で、先日部下から『パワハラを受けた』と訴えられた課長がいましてね。私の知る限り、課長はごく一般的な社員で、部下を追いつめるようなタイプではない。周囲にヒアリングしても、『あれをパワハラといってしまっては……』という意見が多かったんです。

 部下がミスをしてお客さんに多大な迷惑をかけた。それを叱責しただけだと。部下はそれまでにもミスが多かったらしく、そのたびに丁寧に指導していたそうですが、声を荒げたのはそのときだけだったそうです。

 でも、部下は『日常的に過剰な要求をされ、精神的に追いつめられた』と言い張る。会社側としては、受け手がパワハラと感じたらパワハラと認定するしかありません。

 結局、その課長は降格。その半年後、退職しました。
 その一件以来、部下の指導を嫌がる管理職が増えてしまったんです。

 社内教育は行っていますし、河合さんが以前書いていたように、パワハラは職場風土の問題だと私も思います。先日も、記事にあった“組織的パワハラ”という言葉が、とても腑に落ちました(「『人を傷つけずにいられない』組織的パワハラ」)。

 パワハラを生み出すような、ギスギスした職場にしてはいけないと、常日頃から社員同士のコミュニケーションや風通しをよくするよう心がけています。

 でも、パワハラが社会問題化するほど、『パワハラ』を訴える部下が増えるという現象も起きています。受け手が基準になる限り、パワハラはなくならないんです。

 私も、つい厳しい言葉で部下を叱責してしまうことがあるので、管理職が部下の指導を嫌がる気持ちもわかる。恐いんですよ。受け手の判断で『パワハラ』が決まるというのは……、どうも合点がいかないんです」