パワハラに関する報道が、相次いでいる。
豊田真由子衆院議員の“暴言劇場”はあまりにも衝撃的だったが、今度は創業100年の老舗農業機器メーカーで、前社長のパワハラによって30人以上の社員が辞めていたことが報じられた(以下、ソースはこちらなど)。
問題になった前社長は、創業家出身の4代目だ。
「おまえなんか死ね」
「生きている意味がない」
「アホか、ぶっ飛ばすぞ」
「オマエなんかいらない」
「こんな親に育てられる子どもはかわいそうだ。ろくな人間にならない」
などなど、2006年に社長に就任して以来、社員たちは「毎日、パワハラに耐え、パワハラから逃れる日々だった」という。
同社長の愚行はセクハラにも及び、入社面接で「性交渉したことがあるのか?」「彼氏がいるのか?」と聞いたり、複数の女性新入社員と女性社員用の寮で共同生活するなどやりたい放題。
……なんということだ。尋常ではない。
「バカかお前は! 死ね! 生きている価値ないだろう」(by 豊田議員)――。ふむ。全く同じだ。
なぜ、こんな明らかに「アウト!」という行為が繰り返され、放置されるのか?
豊田議員の一件では、「録音するのってどうよ?」と秘書の行為を非難する人が少なからずいた。
「暴言は言わせる方にも問題がある」という意見
しかも、これが“運転手のミス”のあとのやり取りだったことが報じられると、
「運転手がミスしたからでしょ? 指導とパワハラの境界線って難しいよね~」
と、テレビのコメンテーターたちは顔をしかめ、細田博之自民党総務会長に至っては、
「高速道路の逆走が原因」
とわざわざ説明し、ワイドショーでは
「逆走はあったのか? なかったのか?」
なんて不毛な議論が繰り返される始末だ。
「あんな男の代議士なんかいっぱいいる。(豊田代議士を責めるのは)かわいそうだ」
と、自民党の河村建夫元官房長官が述べ、あわてて撤回したあとでさえ、
「政治家ではめずらしいことではない」
と“暴言を擁護”する政治評論家もいた。
私はこういった「暴言・暴行」に一定の理解を示そうとする人々に、一抹の薄気味悪さを感じている。
秘書が100人近く辞め、“ピンクモンスター”とまで呼ばれながらも放置された豊田議員。今年2月の取締役会で解任されるまで10年間もトップに居続けたられた4代目社長。こうした人たちがボスの椅子に座り続けることができたのも、ひょっとするとこういった“擁護派”の存在が関係していたのかも、などと思ったりもする。
彼らはたいてい、昔の理不尽な上司部下関係を美化し、
「昔は、上司からの暴力なんて日常茶飯事」だの、
「何度も蹴りを入れられたけど、ある意味ああいう行為って、愛情表現だし」だのと、
「あの頃は良かった」と懐かしそうに振り返る人たちである。
………だからパワハラがなくならないんだな、きっと。と暗澹たる気持ちになる。
だって“アナタ”が懐かしむ昭和の時代にも、理不尽な扱いに悩み、誰に話すこともできず、ひたすら耐え、中には耐えきれずに会社をひっそりと辞めていった人だっているかもしれないわけで。
どれだけ私の小さな脳みそをグルグルさせても、「死ね」という暴言と「指導」がま~ったく結びつかない。
そもそも社員は、会社に労働力は提供しても、人格を預けたわけじゃない。
社長だろうと、上司だろうと、大先生だろうと、たとえ親だろうと、
「死ね」だの、「生きてる価値がない」だのの罵詈雑言は、許されないでしょ。
そこに「ミス」が存在しようとなんだろうと、虐待は虐待。
そうなのだ。
「パワハラ」という言葉に集約するからややこしくなる。
子どものイジメ問題で、明らかな暴行を「イジメ」と称するのと一緒だ。
「秘書に対する虐待」「従業員に対する虐待」。蹴る、殴る、死ね、などは、すべて「虐待」であり、「仕事の改善」につながる文言が一切含まれない暴言は、パワハラを超えたむしろ犯罪に近い行為。
「指導」の根っこにあるものが、「部下教育」であるのに対し、「虐待」には感情しか存在しない。
もちろん「指導」が目的でも、人が人である以上、大きな声を出してしまったり、嫌味を言ってしまうこともあるかもしれない。感情を抑え切れず、ついイライラをぶつけてしまうことだってある。
一方で、こんな悩みが生まれて久しい。
「業務上で厳しいことを言われた程度で、パワハラと騒がれちゃうんですからねえ。おかげで、部下の指導をいやがる管理職が増えてしまった」
こう嘆くのは、50代の部長さんだ(男性)。
というわけで、前置きが長くなった。今回は「指導とパワハラの境界線が曖昧なワケ」について、アレコレ考えてみようと思う。
部長さんの嘆きを続けよう。
受け手の意識でパワハラ認定、腑に落ちない
「うちの職場で、先日部下から『パワハラを受けた』と訴えられた課長がいましてね。私の知る限り、課長はごく一般的な社員で、部下を追いつめるようなタイプではない。周囲にヒアリングしても、『あれをパワハラといってしまっては……』という意見が多かったんです。
部下がミスをしてお客さんに多大な迷惑をかけた。それを叱責しただけだと。部下はそれまでにもミスが多かったらしく、そのたびに丁寧に指導していたそうですが、声を荒げたのはそのときだけだったそうです。
でも、部下は『日常的に過剰な要求をされ、精神的に追いつめられた』と言い張る。会社側としては、受け手がパワハラと感じたらパワハラと認定するしかありません。
結局、その課長は降格。その半年後、退職しました。
その一件以来、部下の指導を嫌がる管理職が増えてしまったんです。
社内教育は行っていますし、河合さんが以前書いていたように、パワハラは職場風土の問題だと私も思います。先日も、記事にあった“組織的パワハラ”という言葉が、とても腑に落ちました(「『人を傷つけずにいられない』組織的パワハラ」)。
パワハラを生み出すような、ギスギスした職場にしてはいけないと、常日頃から社員同士のコミュニケーションや風通しをよくするよう心がけています。
でも、パワハラが社会問題化するほど、『パワハラ』を訴える部下が増えるという現象も起きています。受け手が基準になる限り、パワハラはなくならないんです。
私も、つい厳しい言葉で部下を叱責してしまうことがあるので、管理職が部下の指導を嫌がる気持ちもわかる。恐いんですよ。受け手の判断で『パワハラ』が決まるというのは……、どうも合点がいかないんです」
……ふむ。確かにこれまでにも、似たような話は何度も聞かされてきた。
「部下はめんどくさいからいっさい関わらない。評価で×をつけるだけ」とまで断言する人や、
「一体どこまで部下に気を使わなければならないのか」と嘆く人。
「このままではプロが育たない。企業は立ち行かなくなる」と先を案ずる人も……。
新しい言葉が広がるのは、その言葉がよく当てはまる問題があっちこっちで起こり、何らかの共通ワードが求められるからにほかならない。パワーハラスメント(=パワハラ)という言葉は、実は和製英語。欧米では「モビング(mobbing)」あるいは、「モラルハラスメント(moral harassment)」。わざわざ“Power”という言葉が日本で用いられたのは、上司からのハラスメントが日本では多かったということなのだろうか。
いずれにせよパワハラという言葉が生まれ、問題が表面化し、救われる人が増えたことは、ホントに良かったと思う。
その反面、言葉が独り歩きし、拡大解釈されるようになると副作用も起こる。
例えば、自分の気に入らない上司の言動はすべてパワハラになってしまったり……。
自分の思い通りに仕事がはかどらなかったり、どんなにやっても結果がついてこなかったり、どんなに頑張っても認めてもらえなかったときに、「あれってパワハラでしょ」と、「パワハラする上司とそれに耐える部下」という構図に置換することで、少しだけ救われるのだ。
パワハラは専門家でも認定するのが難しい事案である。だからこそ、「受け手の主観」が重要視されてきたわけだが、昨今のパワハラ事情を鑑みると、次のフェーズに進むべきときが来ているように思えてならない。
セクハラは「受け手主観」で決めるべきだが、パワハラには、もっときちんとした線引きが必要なんじゃないか、と。
まずは「パワハラ」と「虐待」を分ける。
繰り返すが、「仕事の改善」につながる文言が一切含まれない暴言、すなわち「死ね」「生きてる意味がない」などはすべて虐待。「蹴る」「殴る」「叩く」などの暴行も虐待。
虐待と峻別したうえで、境界線を決めるべき
それらの虐待行為を排除した上で、「パワハラ」と「指導」の境界線を議論すべき。
虐待とパワハラの区別が曖昧だから、いつまでも卑劣な虐待が後を絶たない一方で、「え? こ、これもパワハラになってしまうわけ?」と上司が萎縮するのだ。
そもそも2012年に厚労省が定めた、「 職場のパワーハラスメントの予防・解決に向けた提言 」の「パワハラの定義」がいただけない。
それまではパワハラの明確な定義がなかったので、厚生労働省の外郭団体の中央労働災害防止協会の定義を使うのが一般的だった。
「職場において、職権などの力関係を利用して相手の人格や尊厳を侵害する言動を繰り返し行い、精神的な苦痛を与えることにより、その人の働く環境を悪化させたり、あるいは雇用不安を与えること」(中央労働災害防止協会)
上記のように、「人格や尊厳を侵害する言動」と「繰り返し行う」という文言が含まれていた。
ところが、厚労省の定義では……、
「同じ職場で働く者に対して、職務上の地位や人間関係などの職場内の優位性を背景に、業務の適正な範囲を超えて、精神的・身体的苦痛を与える又は職場環境を悪化させる行為」
と重要な識別点であるはずの「継続性」が削られた。
さらに、
- 上司から部下に対するものに限られず、職務上の地位や人間関係といった「職場内での優位性」を背景にする行為が該当すること
- 業務上必要な指示や注意
- 指導が行われている場合には該当せず、「業務の適正な範囲」を超える行為が該当すること
とし、「業務の適性な範囲」という、これまたお役所的文言が組み込まれてしまったのだ。
「 職場のパワーハラスメントの予防・解決に向けた提言 」では、以下の6類型を提示していたので、当時はかなり話題になった(以下が6類型)。
- 「身体的な攻撃」――暴行・傷害
- 「精神的な攻撃」――脅迫・名誉毀損・侮辱・ひどい暴言
- 「人間関係からの切り離し」――隔離・仲間外し・無視
- 「過大な要求」――業務上明らかに不要なことや遂行不可能なことの強制、仕事の妨害
- 「過小な要求」――業務上の合理性なく、能力や経験とかけ離れた程度の低い仕事を命じることや仕事を与えないこと
- 「個の侵害」――私的なことに過度に立ち入ること
ハードルが下がった今だからこそ、人権教育を
メディアはこぞって「パワハラ6類型」をフリップにし、街頭に出て、インタビューした。
「うちの会社でもありますよ。僕なんて、“給料泥棒!”って、クライアントの前で怒鳴られたことがありますから」
「私なんか毎日受けてますよ~。無理な仕事ばかり押し付けられて。あ、4番、これこれ! 過大な要求ってやつですよ。部長! いい加減にしてください!(笑)」
「うん。やっぱりありますよね。大企業ならちょっと我慢すれば、上司か自分かどっちかが異動になってどうにかなるんでしょうけど、中小企業じゃ無理。辞めるしかないですから。実際、パワハラされて辞めた人いますよ」
深刻に話す人、笑いながら話す人、対応は二分されていたけれど、ほとんどの人が「あるある!」と答えていたのである。
……今、改めて当時のリアクションを思い起こしてみると、「ある!ある!」と連発されてしまう定義って、諸刃の剣なんじゃないかと。
つまり、訴える側のハードルが下がるということは、訴えられる人のハードルも下がるってこと。
国はやっとパワハラの法整備を始める議論を始めた(こちら)。ここでは「パワハラと指導の線引き」が焦点になっていると報じられているが、是非とも、「虐待」と「パワハラ」を分け、「継続的」という文言も重要視して欲しい。。
そして、もうひとつ大切なことを忘れてはならない。
徹底的に「人権教育」をするべきだ。
「労働者である前に人間」がまだ常識になっていない
高校で「労働法」の授業が始まることになったが、もっと土台の部分を教育するのが、教育の目的であり、土台なくして考える力もへったくれもない。
もちろん法律を「知る」ことで無用な要求を避け、「やりがい搾取」のような悪質な労働条件を強要する企業から身を守ることが可能になるかもしれない。
でも、いちばん大切なのは「労働者である前に人間である」という至極あたり前の価値観を持ち、「労働者は、その労働力を雇用者のために提供するが、その人格を与えるのではない」という哲学を徹底的に持つことだ。
法律はあくまでも「盾」でしかない。その盾を使わなくてもいい社会を考える力を育むことが肝心。その土台なくして、小手先の手段ばかりを学ぶから副作用が強烈になる。
ん? 何? そのとおりですね。学生を教育する前に、オトナを徹底的に教育すべし。 経営者しかり、管理職しかり。
「バカかお前は! 死ね! 生きている価値ないだろう」なんて暴言が、いつか永遠にこの世から消えますように……。
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