いったい何のために、私たちは走っているのか? いったいどこの誰と競争しているのか? ちっとも明確じゃない。それでも、みんなと同じような服装に身を包み、みんなと同じようにしていれば、なんとなく脱落しなくて済むような気がして。だから走る。

「負けないため」の競争はしんどい

 もちろんどんな世界であれ、生きている限り誰かと競争しなくてはならない場面は当然ある。でも、ただ「負けないために」と走らされる競争ほど、しんどいものはない。

 しかも、この競争には「自分ではどうにもできない“事情”」で、コース外に追いやられるリスクが多分に存在する。

 ときには病気がきっかけとなり、ときには経営者の尻拭いがきっかけとなり、とっきには勝手な会社の都合で、「あなたはもう走らなくていい」と、「負け組」(この言葉自体嫌いだが、敢えて使います)になる。

 そして、いったん戦線を離脱させられた人は、二度とそこから脱せなくなることを、私たちは経験的に知っている。経済や社会の仕組みだけではなく、人間の心理がそうさせていることにも、私たちは薄々気がついている。

 自己の利益を最大限守りたいという欲求。勝ち組の枠内にいる人たちのこの無意識の欲望が、さらに競争を激化させ、格差が固定化していくのである。

競争社会のスタートライン

 そうなのだ。就活は「自分たちの社会そのもの」だった。あの異様さは、私たちがいる社会の異様さなのだ。

 学生の中には、自分が何をしたらいいのかさえ分からず、人とどうやってコミュニケーションをとっていいのかさえ分からず、就活に意味を見出すことさえできず、悶々としている学生も多い。

 ところが、“就活”という競争ラインに立たされた途端、あたかも自分には明確な目標があり、やりたいことが明確で、自分は周りと上手くコミュニケーションがとれるがごとく演技する。

 そんな演技など、本当は必要ないのに。就活マニュアルに洗脳されるのだ。実際には、

 「う~ん、優秀な人材だけじゃなく、もっと変な学生を入れてみるのもいいんじゃないか」とか、

 「“英語屋”ばかり増やしても仕方がないから、超ドメスティックな学生を入れよう」などと、企業が求める人材も採用基準も、一連の求人活動の途中で変わることが往々にしてある。

 そんな変幻自在な基準でしかないのに、たまたま名の知れた大企業に内定をとった学生は、人生の勝者のように振る舞い、たまたま内定をとれなかった学生は、自信を喪失し自己否定する。「内定=人間の価値」幻想に脅され、ただただ走らされているのが、現代の就活なのだ。