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 ただ、物足りなく思える点もある。
 それは、講義の中で挙手をすることや自分の意見を言うことに尻込みしがちな点で、一人の先生は

 「とにかく周囲から浮くことを極端に嫌っているように見えますね」

 とおっしゃっていた。
 私も、昨年来、同じことを感じていた。

 礼儀正しくておとなしくて優秀で、しかしながらその一方でひどく控えめに構えている彼らは、初手の印象としては、なんだか緊張しているように見えるのだ。

 しかし、継続的に観察していると、彼らが必ずしも緊張しているのではないことがわかってくる。
 私の世代の人間から見ると、21世紀の学生は、昭和の学生がガチガチにカタくなっていた時と同じように見えるのだが、その実、現代の学生たちはさほど緊張しているわけではない。彼らなりにくつろいでいる。つまり、どうやら、目上の人間の前で若干緊張しているかのようにふるまっているのは、彼らが採用している新しい時代の礼儀であるようなのだ。

 自分の時代の話をすればだが、私の周囲にいた早稲田の学生はおしなべて粗野な振る舞い方をしていた。

 私自身は、自分を上品な学生だと考えていた次第なのだが、その万事に控えめで思慮深い自分から見て、早稲田のキャンパスに集まり散じている有象無象の若者たちは、どれもこれもやたらと声のデカいがさつな人間に見えた。

 学生時代に、一度、何かの用事で学習院大学を訪れた折、目白のキャンパス内を行き来する学生たちが、誰も皆、緑深い環境の中で静かに「語らって」いることに、衝撃を受けたことを記憶している。

 「ああ、こういう場所をキャンパスと呼ぶのであろうな」

 と私は強く印象付けられたものだった。

 「あくまでも抑制的な声量と口調で互いの意思を伝え合っているこの人たちと比べたら、オレたちはまるで屍肉を奪い合うカラスだぞ」

 当時、早稲田の学生の声がやたらとデカいことの理由として私が自分を納得させていた仮説は、
 「なにしろうちのキャンパスは人口密度が高いからなあ」
 ということだった。

 日曜日のアメ横とそんなに変わらない環境でコミュニケーションを強いられている以上、われわれの声がアメ横の売り子の売り声に近似してくるのは、避けられない必然だと、そう考えたわけだ。

 しかしながら、40年の歴史時間を経て再び早稲田のキャンパスを訪れてみると、あらまあびっくり、2018年の早稲田の学生諸君は、1970年代の学習院の学生ライクな口調と声量で静かに語らっているではないか。キャンパスの人口密度そのものは、40年前とほとんどまったく変わっていないにもかかわらず、だ。

 これは、どういうことなのだろう。
 ワセダが学習院化したということは、もしかして、学習院はまるごと皇室化しているのだろうか。

 これまたずっと昔の話だが、1980年代の終わり頃、ある雑誌に
 「パパ社長の未来」
 というタイトルのエッセイを書いたことがある。