今回の事件を私が見聞した範囲の情報から思い切り単純に要約すると、「モンゴル力士社会」という異様に狭っ苦しいムラ社会の中で勃発した暴力事件を、「大相撲社会」というこれまた異様に狭っ苦しいムラ社会の人間たちが処理するにあたって外部に漏れたほころびを、「平成の日本」というこれまた盛大にも広大にも狭っ苦しいムラ社会のメディアがよってたかって突き回しつつ娯楽として消費している姿だったわけで、つまり、私が立っている場所から見ると、このお話は、三重の同心円構造を持つ巻き貝の中身みたいな螺旋的ムラ社会カタツムリぬらぬら事案だったということになる。

 と、細々とした事情はともかくとして、この問題を解く鍵は、
 「ムラ社会の外にいる人間の目から見ると、ムラ社会の中の出来事はただただ異様に見える」
 という至極当たり前な観察の周辺にある。

 相撲界全体から見ると、モンゴル力士社会内部でやりとりされている関係や言葉や感情は、どれもこれもバカみたいに狭量で低劣に見えるわけなのだが、その相撲社会がモンゴル力士社会を断罪しようとした態度を日本の一般社会の人間の視点で見ると、これまたとてつもなく狭量粗雑なやりざまに見える、と、ここまでは良い。

 大切なのは、その日本の良識ある横綱審議会だのマスコミ言論人だのが、相撲界に対して物申している「相撲の美」だの「日本の伝統」だの「横綱の品格」だのといったお話にしたところで、彼らの属しているムラ社会の外側かたあらためて見直してみれば、およそ滑稽なポエム規範に過ぎないということだ。

 もうひとつ私が、この事件の発生以来ずっともやもやと考え続けているのは、日馬富士が体現してみせた「暴力」は、もしかしたら、相撲の世界の中の人たちが口を酸っぱくして繰り返している「相撲の美」や「横綱の品格」ひいては「日本の同調」の本質を純化した果てにあるものなのではないか、ということだ。

 

 このお話も、ちょっと説明を要する。

 外国からやってきた人間は、その国の文化の本質の部分を、その国で生まれつきの人間として暮らしている者には思いもつかぬやりかたで掴み取っている場合がある。

 私の知っている例では、ジョン・レノンという人が、いくつかそういう歌を書いている。

 ひとつは、あの有名な「Imagine=イマジン」で、これは、現在では、オノ・ヨーコさんとの共作でクレジットされるようになった歌でもあるのだが、この歌の中には、レノン氏が、日本からやってきた女性であるヨーコさんから吹き込まれた東洋思想へのあこがれや、架空の平等社会日本のイメージが、極めてシンプルなカタチで反映されている。その点で、世界中の人々の詩的イマジネーションをかきたてる歌に仕上がっている。

 死後に発表されたアルバムの中の1曲「Borrowed Time」というのも不思議な歌だ。

 ジャスラックの皆さんへの配慮で、内容を詳しく紹介することは控えるが、タイトルにある通り人生を「借り物の時間」と喝破する内容を持つこの歌の底流にも、ヨーコさんをネタ元とする東洋思想の大胆な翻案が採用されている。

 この種の外国人の立場からの異文化への言及を、安易かつ粗雑な要約に過ぎないと見る向きがあることは承知している。

 が、私自身は、われわれの文化の中にある世界や人生についての洞察を「borrowd time」 というたった二つの単語で要約してしまうような荒業は、これは、むしろ外国人だからこそできたことなんではなかろうかと考えて、それを積極的に評価することにしている。

 余談だが、私もひとつこの関係のネタを持っている。