話を整理すれば、私が大相撲関連のニュースを遮断していた理由のひとつは、「いやな日本人」が群がっていることを伝える情報を読みこなすことが自分にとっては過大な精神的負担であったからで、もうひとつは、その種の「いやな日本人」のニュースに触れた時に自分が示すであろういやな反応に自分ながらうんざりしていたからということでもある。

 おそらく、私は、

 「オレみたいな視野の広い人間から見れば、君たちみたいな直情的な日本人たちは、これこれこんなふうに見えているのだぞ」

 という感じの上から見下したカタチの原稿を書くことになる。
 というよりも、このテーマで原稿を書く以上、その書き方から逃れることは事実上不可能なのだ。

 なんとなれば、大相撲の周辺で起っていることは、もうずっと前から、多かれ少なかれ「日本人の悪いクセ」というタグからほとんど一歩も外に出ない話題に終始していて、その「日本人の悪いクセ」をテーマとする原稿は、「自分のことを棚に上げたエセ文化人」の立場からでないと書き起こすことができない種類の文章だからだ。

 そんなわけなので、その自分が書くに違いない原稿のイヤミったらしさに、あらかじめ食傷していたからこそ、私はこの件について書くことを自らに禁じていたのであり、それ以上に、この件を考えること自体を拒絶していたのだ。

 しかも、私は、苛立つばかりで、改善策をひとつも持っていない。
 自分たちが日本人であるというところから発しているこの問題を解決するためには、われわれが日本人でなくなること以外に方法がない。

 とすれば、私が心がけなければならないのは、せめて自分自身だけでも「悪しき日本人の典型的な行動パターン」を踏まないように努力することであるはずで、その典型的な醜い日本人として振る舞わないための具体的な第一歩がすなわち、日馬富士暴行問題に群がって騒ぎ立てる人間たちの一員に加わらないことだった…というわけだ。

 さて、以上が、私がこの話題についてこれまで書かなかった理由なのだが、ここから先、私は、自分がこの話題について原稿を書く理由を説明しなければならない。

 この説明はちょっとむずかしい。
 読者に届くものなのかどうか自信がないのだが、書くだけ書いてみる。

 さきほど私は、大相撲の問題に通底している「日本人の悪いクセ」を論じるためには、「自分が日本人であることを棚に上げた腐れ文化人」の視点から物申すほかに方法がないという意味のことを書いたのだが、これは、書き方の問題だけではなくて、もしかしたら、われわれの身の処し方全般についてそう言える話なのかもしれない。

 どういうことなのかというと、われわれが、「日本人の悪いクセ」から逃れるためには、自分自身が日本人であることを一旦棚上げにして、「国際人」というありもしない架空の立場に依って立って芝居を打つ以外に、スタンスの取りようがないということだ。

 そのためには、原稿を書く人間は、自分のものの言い方がイヤミったらしい出羽の守の言い草であることを重々承知した上で、それでも日本人を叱りつける言説を繰り返さねばならないということだ。

 このことは、

 「おい、さっきから日本人に説教をカマしてるお前はいったい何人なんだ?」
 「オレか? オレは未来の日本人だよ」

 という、この胡散臭い小芝居を図々しくやり通す覚悟がない人間は、はじめから大相撲には言及するべきでないということでもある。

 なんとなれば、このほど「大相撲」という枠組みの中で体現されてしまった「日本」なるものは、われわれにとって、等しく恥辱そのものでもあるからだ。