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 万博招致決定のニュースがもたらした「空気」の変化は、まず最初に「招致反対言論の一掃」という形で顕在化しはじめている。

 招致に反対する人々が消滅したのではない。
 招致が決定した瞬間に、反対意見を表明してはいけない空気が醸成されたということだ。
 私がテレビ出演をためらったことも、その流れのひとつのあらわれと申し上げて良い。

 要するに、
 「いまさら反対意見を言っても何の得にもならない」
 と、万博の開催に反対している人間の多くが、そう考えざるを得ない方向に、世間の「空気」が変わってしまったわけだ。

 ちなみに申せばこの空気は、同時に
 「全国民が一丸となること」
 「国と自治体が一致協力してひとつの目標に取り組むこと」
 「企業や市民も心をひとつにして万博の成功に尽力すること」
 といった挙国一致しぐさの浸透を促す空気でもある。

 私自身は、万博推進派と万博反対派の間を分かつ最も本質的な違いは、この「全員一丸」への態度の違いなのだと考えている。

 もちろん、資金調達への疑念や開催の正当性に対する疑問などなど、賛成派と反対派の間には、様々な見解の相違が介在している。

 ただ、両者が決して相容れない最も致命的な対立点は、カネやカジノの問題より、この「挙国一致」への反応の違いなのであって、採算性や正当性をめぐる議論は、実のところ、「国民一丸」への賛否をより具体的な次元での争いとして処理するための代理戦争に過ぎないのである。

 この争いは、わたくしども個々の日本人の個人的な歴史の中で、ずっと底流していた葛藤でもある。

 たとえば、通っていた学校で、
 「大切なのは全校生徒が一丸となって協力することだ。全員が一致団結して行動する時の昂揚感と共通意識の大切さを学べるのであれば、ベルマーク集めでも校舎裏の草取りでも、対象はなんであってもかまわない。とにかく成長過程にある君たちにとって大切なのは、仲間たちと心を一つにする経験なのだ」  といった感じの演説を聞かされた経験はないだろうか。
 私にはある。

 で、その種の演説を聞かされる度に
 「うへえ、薄気味悪い」
 と思っていた。
 そう思わなかった生徒もいたはずだ。
 たぶん、彼らの方が多数派なのだろう。
 で、その彼らは、万博を歓迎しているはずだ。

 かりに、万博がケチくさいイベントに終始して、資金の流れが最終的にどんぶり勘定のどがちゃがに帰するのだとしても、大勢の人間が一致してひとつの国家的イベントを盛り上げようとした営為そのものは、かけがえのない尊い経験だと、そんなふうに考えるはずだからだ。