しかし、トルシエの真意は別のところにあった。少なくとも、私はそう思っている。

 「いない人間は悪い」
 というのは、
 「不在の人間は、罪を着せられがちだ」
 という意味のことわざで、トルシエがこの言葉を引用したのは、
 「良識のある人間は、その場にいない人間の噂話はしない」
 という意思の表明だったということになる。

 つまり彼は、より詳しい言葉に翻訳すれば

「君たちメディアの人間は、いまイタリアにいる○○選手について私に論評させようとしているようだが、それはフェアな態度じゃないよ」

 と言おうとしていたはずなのだ。

 が、結果として、トルシエの言葉は、誤解された。
 彼の言葉は、いつも誤解されていた。

 オシムの言葉も、ザッケローニの言葉も、ハリルホジッチの言葉も、毎回というわけではないが、時に応じて、微妙に冷淡なニュアンスで記事化されることが少なくなかった。

 どうしてなのか、スポーツ新聞の記者は、外国人監督による苦言や、外国人選手の愚痴や、外国人記者の疑問を、正確に翻訳しないのだ。

 いま現在も、モンゴルからやってきた横綱・日馬富士と、同じくモンゴル人力士である貴ノ岩の間で勃発したと言われている暴力事件について、スポーツ新聞とテレビのワイドショーが、連日、猛烈な勢いでニュースを配信している。

 私は、この大量報道の中にも、誤解をはらんだ情報が混入していると思っている。

 昼となく夜となく垂れ流しにされているそれらの噂話は、悪意のある誤解というよりは、「自分たちにとって理解しやすい方向に読み替えた誤解」という感じの与太話ではあるのだが、それでも、場合によっては、その種の「メディア受信者の先入観に媚びた解釈」は、悪意ある偏見よりもタチの悪い差別を招来しかねない。

 「どうせガイジンには日本文化の微妙なところはわからない」
 「ガイジンって、○○だよね」

 というその種の背景説明なりコメントなりが示唆しようとしている安易な結論は、あるタイプの人々を気持ち良くさせる効果を持っている。

 別の言い方をすれば、われわれは、「日本文化の微妙さを感知できない外国人」をエピソードの中に登場させることで、結論として日本文化のユニークさと繊細さを強調するタイプのストーリーを好む傾向を持っているわけで、つまるところ、われら日本人は、悪気があるとか、差別する意図があるということではなくて、結果として、日本を訪れていたり住んでいたりする外国人に「わからんちん」の役割を押し付けてしまいがちな人々なのである。