なので、現場に派遣されている自衛隊の関係者、ならびにその彼らに感情移入している皆さんが安保法制を待望し、PKO協力法を改正したがった気持ちは、私のような部外者にも、大変によくわかる。

 軍隊として振る舞うのであれば、当然、軍隊としての装備と、軍人としての心構えと、軍を持つ国の構えにふさわしい整備された法律を持っていなければならない。そうでないと、兵隊さんは正しく戦い、あるいは命を捨てることができない。

 その意味では、昨年来世間を騒がせてきた安保法制をめぐるやりとりも、現在くすぶっている憲法改正への動きも、結局は、「軍を持つ国としての法整備」を求める人々の声を反映したものだった。

 おそらく、憲法第九条を改正して、自衛隊を正真正銘の国防軍として再編成し、公式な軍隊の責任を担う機関としての軍法会議を設け、軍事法廷を整備し、自衛隊員を国防軍の兵士として遇する新しい法律を用意すれば、「駆けつけ警護」という、取ってつけたような気持ちの悪い言葉は、そもそも不要になることだろう。

 とはいえ、自衛隊をめぐる欺瞞的な言葉遣いや、苦肉の法解釈や、失笑を招きかねない武器使用条件を解消して、わが国が正式の軍隊を備えた“一人前の国家”になるためには、やはりそれなりのリスクとコストを覚悟せねばならない。

 そのリスクとコストの問題は、自衛隊をめぐる法律的な一貫性の問題とは別に、まったく別の尺度から慎重かつ冷静に検討しなければならない。

 今回は、そこには踏み込まない。
 ここでは、とりあえず、言葉の問題だけを取り上げる。

 さて、自衛隊が「駆けつけ警護」の任務に就くことになっている、南スーダンでは、「衝突」はあったが、「戦闘行為」は無かったことになっている。

 ここでも、おかしな言葉が使われている。

 報道によれば、安倍首相は、10月11日の衆院予算委員会で、民進党の大野元裕議員の質問に答える形で、7月に起きた南スーダンでの武力衝突について「戦闘行為ではなかった」との認識を示した。

 南スーダンでは7月以降、大統領派と副大統領派の武力衝突が再燃し、事実上の内戦が続いているのだが、安倍首相はこの日の答弁の中で、「武器を使って殺傷、物を破壊する行為はあった」と認めながら、「戦闘行為の定義には当たらない」と答えている。

 武装勢力が武器を使って人を殺している(南スーダンの首都ジュバでは、すでに270人以上の人間が死亡する武力衝突が発生している)にもかかわらず、それが「戦闘行為」ではないというのはどういう解釈なのだろうか。というよりも、そもそも「戦闘行為」が生じていない場所に、どうしてPKO部隊を派遣する必要があるというのだろうか。

 答えは、現場には無い。
 答えは、どちらかといえば、法律の条文の行間に書かれている。

 つまり、

1.「戦闘行為」があったということになると、その場所は戦闘地域になる。
2.南スーダンが戦闘地域だということになると、憲法上の制限から自衛隊を派遣することができなくなる。
3.それゆえ、自衛隊を派遣するためには、南スーダンが「安全の確保された場所」であることが認定されなければならない。
4.したがって、南スーダンで戦闘行為があったという認識は排除され、書類上の安全が確保される。

 と、こういう順序で話が進んでいる。
 だからこそ、稲田朋美防衛大臣は、同じ日の答弁の中で

「戦闘行為とは、国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷しまたは物を破壊する行為」

 とした上で、南スーダンの事例は

「こういった意味における戦闘行為ではない。衝突であると認識している」

 と、強弁せざるを得なかったわけだ。