まあ、疑惑なのだから、エビデンスは、解明されてからでないと出てこないと言えばそうも言えるわけだが、一方に、確たる証拠のない事案について断定的な書き方をしているメディアの姿勢に疑念を抱く人々がいることはよくわかる。

 とはいえ、実際のところ、学園周辺ならびに政府が、報道側の質問に対してほとんどまったく何の回答も提示していないどころか、周辺情報すら積極的に消しにかかっていることが目に見えているからこそ、「答えがない」ということを繰り返し報道せざるを得なくなっているのが実態ではあるわけで、つまりこの問題は、エビデンスの有無以前に、政府ならびに学園の隠蔽ぶりのあまりといえばあまりに異様な強烈さそのものが報道の核心になっている、はなはだ珍しいケースだと考えるべきなのではなかろうか。

 岡山理科大学獣医学部が認可されるに至った事情を取材すれば、とてもではないが

 「何の問題もない」

 とはいえないはずだ。
 百歩譲って

 「多少の問題はあるだろうけど、たいした問題ではない」
 「たしかに問題はあるけど、ほかの大学のほかの学部の認可だって似たようなものだよ」

 ということが仮に言えるのだとしても、その種の相対化は、学園側が説明を拒む理由にはならない。政府が国会答弁を嫌って臨時国会を冒頭解散したり、衆議院を解散したり、新たに始まることになっている解散後の国会の質問時間の割り振りを変更する理由にはなおのことならない。あたりまえの話だ。

 つまり、何がおかしいのかというと、何かがおかしいと多くの人々が感じていることがらについてまったく説明が為されていない点がおかしいわけで、このおかしさは、この問題が浮上した当初の疑問のおかしさよりも巨大な疑惑に成長している。だからこそ、本来は文部科学行政上の些細な不祥事であったこの話題は、政権担当者のリーダーとしての資質を疑わしめる試金石に変貌している。

 「説明してください」
 「文書がありません」
 「えっ? どうして」
 「廃棄しました」
 「認可の過程を教えてください」
 「議事録がありません」
 「どうしてですか?」
 「個別の議事録は作成していません」
 「学園長を参考人招致したい」
 「招致の必要を認めません」

 これでは、まるでらちがあかない。

 仮に疑惑のエビデンスがつかめていなくても、こんな事態に直面したら「これほどまでに強烈に隠蔽をはかっている以上、その先には必ずや何かが隠れているはずだ」と類推するのが、取材者の当然の構えというものだ。