だからたとえばクイーンについても、彼らの才能の物語である音楽そのものは認める一方で、彼ら自身の人間的な苦悩や友情にはさしたる関心を持たない。そんなものは「メロドラマ」だと退けてしまう。

 私自身は、才能を持っている人間には、それを「恩寵」ないしは「義務」として受け止めてほしいと思っている。
 エンジェルスの大谷翔平選手を見ていると、その感じを強く受ける。

 彼は、自分の才能を権利だとは思っていない。むしろ、持って生まれた才能ゆえに、自分は世界に対して「義務」を課されているというふうに感じているらしく見える。その点が、私には、とても好ましく感じられる。

 フレディの才能は、もしかしたら本人にとって、それ以上のもの、すなわち重荷だったかもしれない。
 才能が、「やすやすと作品を生み出す能力」だったり「努力なしに成果が出る」魔法の杖としてもたらされるものであるのだとしたら、こんなめでたい話はないのだが、多くの場合、才能は、「特定の対象への尽きせぬ執着」という形でそれを持たされた人間を蝕むことになっている。

 で、フレディは、それに苦しめられていたように見える。
 痛ましい話だ。

 最後に、音楽の世界での業績は別にして、フレディ・マーキュリーが、性的マイノリティーの名誉を高める上で果たした仕事の大きさを、この場を借りてぜひ強調しておきたい。

 LGBTの人々への偏見を除去するべく社会的ないしは政治的な運動を繰り広げている人はたくさんいるし、彼らの功績も決して小さくない。

 ただ、いわゆる性的マイノリティーの中に素晴らしい才能が含まれていることの最もわかりやすい実例として、フレディ・マーキュリーの貢献は、ほかに比類のないものだと思う。

 われら一般人は、なじみのない属性の人間に相対する時は、その属性を代表するわかりやすいアイコンを通して彼らを認識する。それゆえ、アイコンとなる有名人次第で、その属性への見方は大きく変わることになる。

 たとえば、私のような20世紀半ば生まれのアジアの人間が抱いているアフリカ系の人々へのリスペクトの感情の大きな部分は、モハメッド・アリのリングマナーや、スティーヴィー・ワンダーの音楽に由来していたりする。

 その意味で、フレディ・マーキュリーの価値は限りなく大きい。

 マリちゃんのその後が気になっている読者がいるかもしれないので、簡単に付記しておく。

 これが小説なら、劇的な結末を与えるところなのだが、残念なことにこの文章は小説ではない。
 彼女はなんとか不登校を克服したと聞いている。で、無事に進学して、その後結婚して子供を生んで幸せに暮らしている。ついでに言えばだが、当時もその後も、私と個人的な関係が生じたことはない。

 つまらない結末だと思うかもしれない。
 おっしゃる通りだ。
 大丈夫な人間の人生は、退屈に運ぶことになっている。

 とはいえ、そんなマリちゃんにも思春期の危機はあったわけで、その危機をやりすごす上で、最も不可欠だったのは、親でも兄弟でもなく、フレディだった。

 何の係累もない、はるか海の向こうの局外者が、誰かを救うことがある。
 これこそが才能の力だと思う。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

今回はもう、とても茶々を入れる気持ちになれません。
何も言わずにクイーンの曲に酔い痴れることにいたします。

 なぜ、オレだけが抜け出せたのか?
 30 代でアル中となり、医者に「50で人格崩壊、60で死にますよ」
 と宣告された著者が、酒をやめて20年以上が経った今、語る真実。
 なぜ人は、何かに依存するのか? 

上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白

<< 目次>>
告白
一日目 アル中に理由なし
二日目 オレはアル中じゃない
三日目 そして金と人が去った
四日目 酒と創作
五日目 「五〇で人格崩壊、六〇で死ぬ」
六日目 飲まない生活
七日目 アル中予備軍たちへ
八日目 アルコール依存症に代わる新たな脅威
告白を終えて

 日本随一のコラムニストが自らの体験を初告白し、
 現代の新たな依存「コミュニケーション依存症」に警鐘を鳴らす!

(本の紹介はこちらから)