誰もが感情過多で、大げさで、身勝手で、常に自己憐憫の虜になっている。しかも、彼らは、たやすく激発し、ことあるごとに自暴自棄に陥る。

 この5年ほど、年に何度かお誘いを受けて義太夫を見に行く機会に恵まれているのだが、見るたびにあきれるのは、あの時代の演劇台本の中で暮らしている人々のうちにある不穏極まりない激情だ。

 最初のうちしばらく、私は、太夫の口舌の中で展開される人物像の直情径行のありさまにただただあきれていた。
 どうしてそう簡単に死ぬの腹を切るのと短絡するのかと、知的な現代人たるオダジマは、緞帳の手前に浮かび上がる近世人の阿鼻叫喚を訝しんでいた。

 ただ、何回か通ううちに理解したのは、われわれの集合無意識を父母に持つ演劇的な人物は、観客の理性や賢さではなくて、われわれの感情と愚かさを代表して舞台の上に立っているということだった。

 別の言い方をすれば、義太夫のような演劇台本は、理屈で説明できないわれわれの民族の愚昧な感情を体現しているからこそ、時代を超えて人の心を打つことができるわけで、誰であれ小論文みたいな芝居を見たいわけではないということだ。

 フレディが、オペラのまねごとをはじめたのも、そういうことだ。
 彼がオペラに惹かれたのは、オペラがクールで知的で自己啓発的だったからではない。

 フレディがロックミュージックの中になんとしてもオペラの要素を取り入れようと躍起になったのは、オペラが大げさで、滑稽で、古くさくて愚かしかったからだ。

 かくして、「オペラ座」以後のクイーンは、狙い通りに、大げさで俗悪なインチキくささを横溢させながら、それでいて閉ざされた場所にいる人々の心に光をともす見事な芸術の花を開花させるに至った。

 映画の中で展開されていた「メロドラマ」をウザいと思うのは、自分以外の誰かが苦しんでいたり泣いていたりする絵面を見せられるだけで顔をしかめるタイプの人間だ。それ以上に、自分が苦しんでいることさえ、許しがたいと考えるマッチョなのだと思う。

 そういう人たちは、オペラも見ないし、義太夫にも関心を持たない。
 なぜというに、自分は愚かな人間の愚かな感情とは無縁だと信じ込んでいるからだ。
 われら愚かな70'sは、あのメロドラマに完全にしてやられた。
 まんまと感動させられた。

 ドラマに感動するということは、普段の自分より賢くなるということではない。
 むしろ、メロドラマの効能は、日常の中にある自分をとらえている規矩を取っ払って、いつもは眠っている思い切り愚かな感情を解放させるところにある。

 才能について、プラグマティックな考え方をする人々は、それをある種の権利だというふうに考えたがる。

 才能を持っている人間は高く遇されてしかるべきであり、その才能の成果物たる作品には高い商品価値が宿るはずで、ということは才能のある人間は富裕であるべきだと、そういう順序で彼らはものを考える。