思うに、こうしたメロドラマ忌避の態度は、マッチョイズムの一典型でもある。
 21世紀のマッチョは感情を軽蔑している。

 匿名ネット論壇の空気を席巻している冷笑主義も同様で、要するに彼らは「ヤワな」人間や「ふわふわした」言説を揶揄嘲笑攻撃することで、自分が感情に流されない怜悧で冷徹で冷静な男である旨をアピールしている。そういう彼らにとって、何かに感動して泣いたりしている人間は、切って捨てるべきノイズか、でなければ踏み潰すべき毛虫なのだろう。

 フレディ・マーキュリーはそういう強靭で強固で強硬なマッチョとは正反対な存在だった。
 私がフレディに惹かれたのは、音楽的な部分を除けばそういうところだった。

 そういうところというのは、つまり「局外者」ということだ。

 ゾロアスター教徒であるペルシャ系インド人の両親のもと、英領ザンジバルで生まれ、インドのボンベイにある寄宿学校で育った英国人という一筋縄ではいかない出自を見ただけでも、彼が生まれながらの「ボヘミアン」(「ボヘミア人」以外に、「放浪の民」の含意がある)であったことが理解できる。

 おそらく、不登校時代のマリちゃんを慰安していたのも同じポイントだ。
 映画の中でも強調されているように、フレディは、人一倍高い自負を抱いている一方で、シャイで、ヤワで、自己制御の利かない、甘ったれた部分を多く持つバランスの悪い人間だった。当然、品行方正ではなかったし、あらゆる意味で大丈夫な男ではなかった。

 さらに言えば、彼は、セクシャリティーにおいても一般的なストレートではなかった。
 その局外者たるフレディが、もがき苦しんでいた点も大切なところで、その得体の知れない苦しみのゆえに、彼はファンの目に、十字架を背負った聖者に見えていたはずなのだ。

 フレディの複雑な立ち位置が、彼の音楽そのものに影響していたのかどうかはわからない。
 ただ、聴衆は、様々に言われてる周辺情報コミで彼の音楽を受け止める。これは商業音楽の宿命でもある。

 そして、それらの真偽ないまぜの様々な噂の靄の中から発せられた彼らの音楽は、今回の映画の中でも活写されていた通り、もののみごとに多義的な夢幻を表現し得ていた。だからこそクイーンの音楽は大衆的な人気を獲得し、幅広い支持を得ることができた。

 フレディは、前述した通り、様々な意味で大丈夫な男ではなかった。
 しかし、これは古典的な芸能の世界では珍しい設定ではない。
 オペラでも義太夫でも、登場人物の中に大丈夫な人間は一人もいないと言って良い。