上司が中国人である場合と部下が中国人である場合は話が逆になるし、貧しい中国人と付き合うことと富裕層の中国人との交流も別世界の経験になる。

 であるから、ボスとしてふるまう時の中国人と部下として仕える中国人を同じ基準で考えるのは間違いだということでもあれば、中国人の金銭感覚は、貧乏な中国人と金持ちの中国人の両方を知ったうえでないと把握できないということにもなる。

 この話を聞いたときに、少しだけ謎が解けた気がした。
 というのも、それまで、私が中国人について聞かされる話は、どれもこれも白髪三千丈のバカ話にしか聞こえなかったからだ。

 「要するに彼らは◯◯だからね」
 という断言の、◯◯の部分には、様々な言葉が代入される。
 「ケチ」「いいかげん」「自分本位」「忘れっぽい」「やくざ」などなどだ。

 かといって、その種の断言を振り回している人間が、必ずしも中国人を憎んでいるわけでもないところがまた面白いところで、中国通の人々は、中国人を散々にケナし倒しながら、それでいて彼らに深い愛情を抱いていたりする。そこのところが、私にはいまひとつよくわからなかったわけなのだが、とにかく、大学教授氏の話をうかがって、われわれが聞かされる「中国人話」の素っ頓狂さの理由の一部が理解できたということだ。

 つまり、

 「中国人は、われわれの想像を超えて振れ幅の大きい人たちで、しかもその振れ幅は、個々人の持ち前の人格そのものよりは、相互の立ち位置や関係性を反映している」

 ということだ。
 とはいえ、そう説明されてもわからない部分はわからない。

 「まあ、実際に中国で3年暮らさないとわからないんじゃないかな」

 と、中国通は、そういうことを言う。
 私にはそういう時間はない。

 ということは、オレには、あの国の人たちのアタマの中身は一生涯理解できないのだろうか、と思っていた矢先に読んだのが、『スッキリ中国論』だ。

 この本を読んで、そのあたりのモヤモヤのかなり大きな部分がスッキリと晴れ渡る感覚を抱いた。

 たとえば本書で紹介されているエピソードにこんな話がある。

《2018年1月、成田空港で日本のLCC(ローコスト航空会社)の上海行きの便が到着地の悪天候で出発できず、乗客が成田空港で夜通し足止めされるという事態が発生した。航空会社の対応に一部の乗客が反発、係員と小競り合いになり、1人が警察に逮捕された。そこで乗客たちは集団で中国国歌「義勇軍行進曲」を歌って抗議した。》
(スッキリ中国論 P098より)

 この奇妙な事件の小さな記事は、私も当時何かで見かけて不可解に思ったことを覚えている。

 「どうしてここで義勇軍行進曲が出てくるんだ?」

 と思ったからだ。私の抱いていた印象では、中国人は、海外で国歌を歌う人々ではなかった。であるから、成田での彼らの国歌斉唱は、どうにも場違いでもあれば筋違いにも思えて、つまるところ薄気味が悪かった。