電車内で化粧をする女性を「みっともない」という言葉で切って捨てるマナー広告が物議を醸している。
現物を見てみよう。
炎上しているブツは、リンク先のページ(私の東急線通学日記)の上から4番目、「車内化粧篇」だ。
リンク先には、駅貼りポスターと、動画バージョン(マナーダンス篇)が掲載されている。
ポスター版では、上半分に頬杖をついて車両内を観察する主人公の女の子、下半分に電車の座席に座って鏡に向かってアイメイクをしている女性の写真を配置している。
キャッチコピーは、手書き文字でこう書かれている。
「都会の女はみんなキレイだ。」
「でも時々、みっともないんだ。」
動画版は、車両の向かい側の座席で化粧をする女性たちを見て、顔をしかめて
「みっともな!」
とつぶやいた(「吐き捨てた」と言った方が正確でしょうね)主人公の女の子が、突然メイクアップ中の女性たちに向かって「マナーダンス」という攻撃的な振り付けのダンスを踊り出すプロットだ。
ダンスのBGMで流れる音楽には歌詞がついている。内容は
「教養ないないないなーい。みっともないないないなーい」
と、化粧する女性を断罪するコーラスだ。
この広告を見て、ツイッター上には、かなりの数の女性が反発のコメントを書き込んでいる。
「ポスターの中で化粧をしている女性は、隣に誰も座っていない空いた車両でメイクをしているんだけど、いったい誰に迷惑をかけているわけ?」
「女性だけに『たしなみ』を求める姿勢がなんかいけ好かない」
「こういうマナー広告って、新手の嫁いびりよね」
なるほど。
私個人も、この広告の押し付けがましさには、ちょっとあきれた。
ちなみに、車両内で化粧をすることの是非そのものについては、一概には言えないと思っている。
迷惑な場合もあるし、迷惑に感じないケースもある。
同じメイク作業でも、迷惑を感じる人もあれば、まったく気にしない人もいるはずだ。
実際には、車両がどの程度の混雑度なのかによって、化粧から受ける感じはかなり違う。また、化粧とひとくちにいっても、口紅を塗り直す程度の最低限の化粧直しもあれば、下地から塗り上げにかかる本格的な建築工程もある。どの状況でどういうメイクをするのかによって、判断は分かれる。
なので、この問題にはこれ以上深入りしない。
ずっと以前、どこかに書いた原稿で、公共の場所で女性が化粧をはじめることについて
「電車の中で化粧する女性を男が嫌うのは、楽屋仕事を見せられることが心外だからだ。つまり、女性が自分の前で化粧を始めるということは、彼女が自分を完成形以前のメイクアップ過程を見せて差し支えない相手だと判断したことを意味していて、そのことは取りも直さず、あんたは性的な意味で対象外だと宣言されたに等しいことだからではないか」
という憶測を述べた記憶がある。この見解は、いま思えば、穿ち過ぎだった。
話はもう少し単純だ。
車両内のマナーを言い立てる人たちは、要するに、「定型的な規格にハマれない人間」に苛立っているのだと思う。
たとえば、ヘッドフォンステレオから漏れるチャカチャカ音をうるさがる人たちは、騒音そのものに不快を感じているのではない。彼らは、本来なら小さく縮こまって過ごすべき通勤列車の中で、ノリノリで音楽を聴いている若いヤツのその快適そうな状態を憎んでいる。彼らからすれば、音楽を聴いてゴキゲンになることや、周囲の目を気にせず化粧に専念することは、公共の場所にプライベートを持ち込む逸脱行為なのであって、だからこそ彼らは通勤電車という人間が荷物になり変わって運搬されなければならない閉鎖空間の中でくつろぐ人間を嫌うのである。
おそらく、日本人のうちの半分ぐらいは、リラックスした人間を憎んでいる。
誰もが自分たちのように、びくびくして、周囲に気を使って、神経をすり減らしているべきだと考えている……というのはちょっと言い過ぎかもしれないが、撤回はしない。
以上の事情を踏まえて、私が思うのは、
「いったいこの広告は誰に向けて発信されているのだろうか」
ということだ。
ポスターは、現実に東急の電車の車内で化粧を励行している女性たちに向けて、
「あなたたちが実行しているメイクアップ行為はほかの乗客の迷惑だからやめてください」
ということを啓発するために掲示されているのだろうか。
おそらく答えはNOだ。
この広告は、むしろ、車両内で化粧をする女性に腹を立てているおっさんに向けて、
「ほら、わたくしたちは、このようにちゃーんと啓発広告を打って迷惑防止キャンペーンを展開しているのですよー」
ということをアピールするために制作されている。つまり、これはアリバイなのだ。
であるからして、ポスターや動画を見て腹を立てた女性たちも、
「化粧ぐらいでガタガタ言うなよ」
と言いたかったのではない。彼女たちは、鉄道会社が
「ほーんと、近頃の若いオンナって常識なくてイヤですよねー」
ってな調子で爺さんたちに媚びを売っている気配を感じ取って、そのことに反発したのである。
マナーについては、2009年に短いコラムを書いたことがある。
いまはもう無くなってしまった政党の機関紙に書いた原稿だ。
以下にざっとした内容を抜粋する。
《 電車の中で化粧をする人がいる。げげげ、と、既にオールドモデルの人間になりつつある私は、単純にびっくりする。で、この驚きをネタに、たとえばマナーの低下を嘆くテの原稿を書くと、おそらく一定の支持を集める。実際、新聞コラムの世界では、「世の中が乱れている」という前提でモノを書いた方が評判が良いことになっている。なぜなら、コラム読者の多くは、自分たちをモラル崩壊の被害者であるとは考えても、マナー低下の元凶だというふうには決して考えない人たちだからだ。要するに、マナーやモラルは、常に「他人事」として観察されるのだ。
というよりも、マナーは口臭と同じで、そもそも他人のものなのだね。きっと。
あらためて振り返ってみるに、私が子供だった頃、電車の中の品行は今よりずっとひどかった。走り出す列車に飛び乗る大人はいっぱいいたし、手すりにぶら下がって吊り輪をする子供(←オレだよ)も珍しくなかった。
--略--
あの時点から比べると、最近の日本人はずっとお行儀が良い。これは認めなければならない。そりゃたしかに携帯電話の使い方など、色々と問題はある。でも、そもそも昭和の時代には、携帯電話自体、影も形も無かったわけで、ともあれ、全体として、われわれのマナーは向上している。
昭和の日本に比べて現在の社会でイヤな感じになっているのは、むしろ、「マナー違反に対する寛大さが失われている点」だと思う。マナー違反だけではない。われわれは、老人や、杖をついた人や、病人や、ベビーカーを押している母親といった、「異質」で「非生産的な」乗客を邪魔者扱いにしている。でもって、不良学生や、吊り革で遊ぶ子供や、酔ってふらふらしている人々に対しても、笑って眺める余裕を持てなくなっている。なんというのか、社会全体の包容力が低下しているのだな。だからこそこんなにマナーが向上しているにもかかわらず、雑誌のコラム欄は、相も変わらずマナーの崩壊を嘆くテキストで埋まっているってわけだ。うん、モラル違反だと思うよ。そういうのは(笑)。》
21世紀のわれわれの社会にマナー広告が溢れている理由は、私たちが住んでいるこの国が「マナーの崩壊」に直面しているからではない。
上の原稿でも指摘している通り、日本人のマナーは、この何十年か、一貫して向上している。
われわれは、昭和の日本人と比べれば、はるかに洗練された所作を身に着けているし、大人も子供も他人に迷惑をかけない身の処し方を自分のものにしている。
にもかかわらず、駅貼りのポスターや深夜のテレビCMの中にマナー広告の占める割合が増えている。理由は、日本人のマナーが低下しているからではなくて、われわれの「他人のマナーへの許容度」が低下しているからだ。
私たちは、杖を突いた老人や、車椅子に乗った障害者や、ベビーカーと共に現れる母親が、通勤電車に乗りこんで来ることを許容しなくなっている。
なんとなれば、彼らは「規格外」で、ということはつまり、標準的な乗客としての条件を備えておらず、結局のところ「迷惑」だからだ。
昭和40年代までの東京の電車には、身の丈の半分ほどもある巨大な籠を背負った農家のおばあさんや、ツルハシやスコップをかついだ工事労働者や、赤ん坊におっぱいを含ませた状態の母親が平気な顔で乗り込んできたものだった。人々のマナーは今と比べれば明らかに劣悪だったが、その分だけ、他人の逸脱には寛大だった。というよりも、寛大もなにも、「いろんな人たち」が乗ってくるということが電車の基本設定で、化粧どころか、着替えをはじめるオヤジや、弁当を食べる学生やタバコに火を点ける爺さんも含めて、電車は無法地帯だったのである。
私は、21世紀の都会を走る電車の車両内を、1960年代標準の無法者天国に戻せと言っているのではない。
そんなことは不可能だし、実現できたとしてもあんまり素敵な未来像ではない。
私が言いたいのは、21世紀の私たちが、昭和の日本人が(やむなく)そうであったように、他人が自分と同じでないことに対して、もう少し鷹揚であっても良いはずだということだ。
2014年の5月、東京メトロのマナー広告について、私はツイッターで、こんなやりとりをしている。
《東京メトロのマナー広告は「マナーを見守る女の子」の「ミテルちゃん」というキャラクターを立てている。で、その広告が訴える乗客マナーは「他のお客さまの迷惑にならないように」ということを訴えているようでいて、結局のところ「黙っておとなしく運ばれてやがれ」と言ってたりする。》
《一般の客よりクレーマーの声が尊重される時代になっているということなのだろうな。》
《「他の乗客の話し声が大きすぎる」とクレームをつけるのが「一般の客」のマナーになったわけですか。 RT @jun_goro オダジマおじさん、それって一般の客からのクレームだと思いますよ。RT 一般の客よりクレーマーの声が尊重……》
《「他人に迷惑をかけない」というマナーは、結果として、「他者に頼らずに生きていける人間」→「自立した人間」→「社会的な強者」の権益のみを強調することにつながる気がするということを、さきほどから申し上げています。》
2009年以来、私が抱いていた懸念は、どうやら現実化している。
つまり、鉄道会社は、もっぱらクレーマーの目線に配慮した姿勢でマナー広告を制作しているということだ。
これは、彼らがクレーマーにコントロールされているということでもある。
おそらく、鉄道会社にとって、クレーマー対策は、相当にアタマの痛い問題なのだろう。
車内のマナーに、あるいは、列車が遅延する度に、居丈高に怒鳴り散らすクレーマーに、駅員や乗務員は、決して口答えをすることができない。
その苦労は、いかばかりかと思う。
でも、落ち着いて考えてみれば、駅員という「決して反論できない人間」に詰め寄るクレーマーは、人間としては明らかな卑怯者である。
その卑怯者に鉄道会社が迎合することは、結果として、一般の乗客をスポイルしてしまうことになる。
そのあたりの出入りについて、一度真剣に考えてみるべきなのではなかろうか。
鉄道会社に限らず、21世紀の企業は、おしなべてクレーマーに弱い。
たとえば、つい2日ほど前、元女優の高樹沙耶容疑者(本名:益戸育江)が、大麻所持の容疑で逮捕されたことを受けて、テレビ朝日が、再放送を予定していた人気ドラマ「相棒」の内容を、高樹容疑者が出演していない放送回の録画放送に差し替えたが、これなども、私は、幻のクレーマーにおびえて、テレビ局が先手を打った形だと思っている。
何十人もいる出演者の一人に、大麻で捕まった容疑者が含まれているのだとして、一体そのことで誰が迷惑を被るというのだろう。あるいは、その容疑者が映っている場面を放送することで、われわれの社会のどの部分が傷つき、毀損され、危機に陥るというのだろうか。
こんなバカなことが起こるのは、クレームに対応する立場の人間が、クレーマーに対して毅然と対応する気力を持っていないのか、でなければ、苦情をはねのける説得の言葉を用意できていないからだ。そして、彼らは、視聴者の総数からすれば0.1パーセントにも満たない卑怯なクレーマーの声に屈して放送を楽しみにしている何十万人ものファンを裏切っている。なんとも愚かな展開ではないか。
公共交通機関は、多様な人間を乗せて走るものだ。
「多様な」というのはつまり「他の乗客に負担をかける乗客を含んでいる」ということだ。
ベビーカーを押す母親は、通勤客にとって、迷惑な乗客だ。
しかしながら、迷惑だからという理由で乗客を排除したら、電車は電車ではなくなってしまう。
とすれば、マナー広告が発信するべきメッセージは、
「ベビーカーは迷惑にならないように、車内では折りたたむように」
というお話ではなくて、
「ベビーカーと同じ車両に乗る乗客は、ベビーカーのために力を貸してあげましょう」
であらねばならない。
杖をついて歩く人間でも、車椅子移動者でも同じことだ。
公共交通機関は、迷惑な乗客を折り込んだ上で運行されなければならない。
とすれば、電車に乗る人間は、他人の迷惑をいやがるのではなくて、同じ車両に乗る乗客の負担を分かち、移動や乗車が困難な乗客を助けなければならないはずなのだ。
もちろん、そんなことは乗客のほとんどが分かっている。
分かっていても多くの人が協力できないのは、日本の通勤時間帯の電車があまりに混みすぎているからだ。
そして、スペースがないという物理的な問題を「マナー」で解決しよう、というのは、根本的に方向が間違っている。
ベビーカーは錦の御旗ではない。だが、まずはお互い、荷物扱いされていることを怒るべきで、荷物どうしで八つ当たりしあっても仕方がない。
その意味で、化粧をする程度のほんのささいな迷惑を、踊り付きで糾弾してやまないあの広告の凶悪さは、何度強調しても足りない。まあ、そこがギャグなんですということなのかもしれないが。
結論を述べる。マナー広告は、むしろ“迷惑”を歓迎するマナーを啓発しないといけない。
最大の問題は、人間に荷物のマナーを強要する日本の都市構造や勤務体制にある。だからといって心の底から荷物になっていいものなのか。
わたくしどもは迷惑をもたらすお客様を歓迎します、と、ウソでも良いからそう言うのが、大人のマナーってものだぞ。
本を読んでいる人は気にならないのに化粧は気になる。
結局、見慣れているかどうかだけの問題なんでしょうか?
全国のオダジマファンの皆様、お待たせいたしました。『超・反知性主義入門』以来約1年ぶりに、小田嶋さんの新刊『ザ、コラム』が晶文社より発売になりました。
安倍政権の暴走ぶりについて大新聞の論壇面で取材を受けたりと、まっとうでリベラルな識者として引っ張り出されることが目立つ近年の小田嶋さんですが、良識派の人々が眉をひそめる不埒で危ないコラムにこそ小田嶋さん本来の持ち味がある、ということは長年のオダジマファンのみなさんならご存知のはず。
そんなヤバいコラムをもっと読みたい!という声にお応えして、小田嶋さんがこの約十年で書かれたコラムの中から「これは!」と思うものを発掘してもらい、1冊にまとめたのが本書です。リミッターをはずした小田嶋さんのダークサイドの魅力がたっぷり詰まったコラムの金字塔。なんの役にも立ちませんが、おもしろいことだけは請け合い。よろしくお願いいたします。(晶文社編集部 A藤)
この記事はシリーズ「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。
Powered by リゾーム?