あらためて言えば、私の母親の世代の人間は、基本的に「黙読」ということができない。彼女が新聞を読んでいる姿を見ていると、黙って読むことはできていても、微妙に口元がモゴモゴ動いていたりする。それもそのはず、頭の中では文字がありありと音に変換されているからだ。

 母の世代の人間にとって、書物は、貴重品だった。
 月に1冊本を買ってもらえることが大いなる楽しみで、だから戦前の子供たちは、その貴重なうえにも貴重な書籍を、それこそ舐めるように丁寧に読んでいた。間違っても買ってきて2時間で読了するような、そんなぞんざいな読み方はしなかった。

 だから、黙読は、不必要であるのみならず、どちらかといえば、文字に対して失礼な読み方ですらあったはずなのだ。

 ところが、現代の子供たちは、音読していては間に合わない量の情報を取り入れなければならない。
 で、音読は、いつしか
「勉強のできない子の困った習慣」
 みたいな扱いに追いやられつつある。

 文字から音読の要素を排除するということは、情感やニュアンスや音韻やリズムを消し去って、文章を純粋な「情報」に圧縮することでもある。

 いつだったか、ある対談でご一緒した詩人の伊藤比呂美さんに、この「児童進学教室による音読排除のススメ」の話を振ったところ、彼女は素晴らしく怒って

 「子供たちが朗読をしなくなったら、詩が詩でなくなるだけではおさまりません。言葉から音が切り離されるということは、日本語がもはや人間の言葉ではなくなるということです」

 と断言された。私は、
 「そうですね」
 とお答えしたのだが、
 「そうですねじゃありません!」
 と叱りつけられた。

 その通りだ。誰かが叱られなければならないのだ。あるいは、われわれの世代全部が、まるごと、昔の日本人からお叱りを受けて、平身低頭謝罪しなければならないのかもしれない。

 日本語を音読しなくなるということは、言葉の持っている機能のうちのより基本的な側の半分を捨て去ることを意味している。これは、返す返すもとんでもないことだ。

 もっとも、我が身を振り返ってどうなのかというと、私自身、音読の習慣を失って久しい。
 日常的に大量の文書を読みこなすことを業務の一部としている出版業界の人間は誰であれ、似たようなものだと思う。なぜというに、いちいち文章を音声に変換していたらノルマの量の文章を読みこなせないからだ。

 私は、薄めの新書なら内容にもよるがだいたい2時間ほどで読了することができる。
 割り算をしてみると、1分間あたり1000文字ほどの速読力ということになる。
 これは、一般の人と比べれば速いほうだと思うが、業界標準としては、むしろ遅い方かもしれない。

 もっと速い人はいくらでもいる。

 私自身も、献本で送られてくる新刊や、書評のための書籍を読む時のスピードは、自腹で買った本を読む時の速度に比べて明らかに速い。普段の読み方の倍以上かもしれない。