仮に、この社長の言う通りに、1日に50~100冊の本を、4時間から6時間の読書時間で読破しているのだとすると、単純計算で6時間で100冊の場合、1冊あたり3.6分(3分36秒)で読了していることになる。
 私の常識では、これを「ウソ」と思わないことは難しい。

 あるいは、社長自身が、意図的に他人をだますためにウソをついているということではないのかもしれない。
 でも、そうだとしても、社長は自分をだましているはずだ。
 つまり、社長は、3分半で1冊の本を「読んだ」と思い込むウソを、自分に対してついている。そういうことではないか。

 この感覚は、実は、わずかながら見当がつく。

 というのも、私自身、自分の読書については、最近、自分ながら錯覚しているのではなかろうかと思い始めているからだ。
 問題は、どうして件の社長が、見え透いたウソと思われる(ウソだと思ってますが)ほどの読書量をブログに書かねばならなかったのかということであり、また、われわれが、実際には読了しているわけでもない書籍を読破したと思い込みたがっているのかということでもある。

 以下、われわれ21世紀の人間が、情報の入力に関して、いかに奇天烈な妄執を抱くに至っているのかについて考えてみたい。

 この話は順序立てて、思い切り前提のところにさかのぼって話しはじめなければならない。
 なので、これから先で並べるのは、ちょっとめんどうくさいストーリーなのだが、ぜひつきあってください。

 まず、音読と黙読の話をする。
 これは、いくつかの場所で話したり書いたりしたことのある話でもあるので、知っている人は既に知っているかもしれない。が、ともあれ、先につながる話なので、我慢して聞いてほしい。

 十数年前、子供が通っていたある進学塾から、あるペーパーが配布された。
 そのA4のコピー用紙3枚ほどのワープロ打ちのテキストは、驚くべき内容の警告文だった。
 そこにはおおよそ以下のようなことが書かれていた。

 「小学校4年生以上のお子さまをお持ちの保護者の皆さんに申し上げます。お子さまたちに、いますぐこの場で音読の習慣をやめさせてください。音読は、できれば、3年生までのうちに中断したほうが良い習慣です」

 という挑発的な書き出しを受けて、説得は続く。

 「文章を声に出して読んでいる限り、あるいは頭の中で文字を音声に変換して読み下している限り、文章を読む速度は1分間に300文字程度より速くはなりません」

 「ところが、難関中学の入学試験では、1分間300文字の速読能力ではとても追いつかない量の問題文が出題されます」

 「理由は、第一に学習指導要領の定めによって、中学入試では小学校で教えたカリキュラムの範囲を超える問題を出題することが禁じられているからで、第二に、小学校の教育課程の範囲内の問題を普通に解答させると、満点を取る受験生が続出して合否が判定できないからです」

 「そこで、特に優秀な受験生が集中する難関校では、もっぱら問題の分量を増やすことで満点得点者の続出に対応しています。それゆえ、難関校の入試に臨む児童は、試験時間内には読みきれない膨大な量の問題文を読みこなす必要に迫られるわけです」

 「つまり中学受験に臨む子供たちは、なるべく速く、正確に大量の文章を読み下す速読能力を訓練しなければなりません」

 「そのためには、遅くとも小学校4年生の段階で、頭の中で文字を音にする習慣をやめさせて、文字を映像のまま、ひとかたまりの情報として処理する技術に慣れて行く必要があります」

 とまあ、言い回しや説明の順序はともかくとして、内容としては以上のようなお話が展開されていた次第で、われわれはどうやら大変な時代に到達してしまったのだなあ、と、私は、しばし感慨にふけったものなのである。