この世界には、ノーベル賞を獲ったからという理由でその著者の本を買いに走るタイプのミーハーな読者がたくさんいる。
 賞は、そういう人たちのためにこそあるものだ。

 文学通は、ノーベル景気で本を買ったり、ノーベル賞煽りに乗っかって競ってノーベル賞作家の作品を読みはじめる非文学通の一般読者をバカにしている。
 が、そもそも文学というのは、ド素人が流行に乗っかって読むのが本筋で、数からしても、そうやって読まれるのが書籍の最も自然な利用のされ方だ。

 ノーベル賞を受賞するような有名な文学者の著書を、賞が授与されるまで読まずに過ごしていたことを恥辱と感じるタイプの文学通は、既にめぼしい著者の主だった著作を読んでいるはずだし、そうでない場合は、受賞そのものに疑義を呈することになっている。こういう人たちは、賞を獲ったから読むみたいな読み方はしない。他人の評価に配慮して自分の読書傾向を改めるようなことは、プライドの高い彼らには到底耐えられない仕儀だからだ。

 なので、自分の知らない著者がノーベル文学賞を受賞した場合、文学通は、受賞そのものに異論を唱える。

「オレの知らないヤツに賞を与えるとは何事だ」

 と、まるで、自分が世界文学の守護者であるかの如き態度で受賞そのものを否定しにかかる。
 今回、ディラン氏の受賞に関しても、やはり、この種の反応があった。
 残念だが、これは仕方のないことだ。

 彼らは、「文学」が自分たちの個人的な畑で生産される特別な作物で、それらを品評する自分たちの偏狭さだけが、芸術の純粋さを防衛する唯一の防衛線なのだというふうに考えている。

 彼らの言っていることは、つまるところ

「おまえたちにわかるようなものは芸術じゃない」

 ということなのだが、まあ、芸術は、ヒットチャートに乗っかってはいけないものなのだろう。

 困惑させられたのは、受賞が発表された後に出たいくつかの報道だ。

 ボブ・ディランが「本来《芸術》とは無縁な存在である《ロック》というジャンルの音楽の中に、《芸術》と呼ぶにふわさしい要素を付け加えることに成功した」と言っているように読み取れるものがあった。