しかも、福本氏は、

「そんなんもろたら立ちションもでけへんようになる」

 という考え得る限り最高度にアナーキーなコメント(Wikipediaによれば、全国紙では「呑み屋に行けなくなる」と報道された)を返した上で、受賞を固辞している。

 なんと見事な辞退声明であることだろう。

 ふつう、こういうコメント付きで受賞を拒絶された賞は、翌年から少なくとも10年は賞の授与を自粛するのがスジであるはずだと私は考える。

 多少ともプライドを持った組織なら、こんな言いざまで突っ返された賞を別の機会に別の人間に授与しようとは思えないはずだ。授賞を伝えられた人間にしても、先立つタイミングでこのような言葉とともに拒絶された経緯のある賞を、すんなりと受け取るのは、たいそう気の重い仕事なのではなかろうか。

 仮に、私に授賞の打診が来たら

「非国民栄誉賞ならぜひいただきたい」

 と答えると思う。
 実際、国民栄誉賞なんかを貰ったら〆切を延ばすことさえできなくなる。

 ともあれ、これらの事実からわかることは、賞がそれを授けられた人間の評価を高めるのではないとうことだ。

 むしろ受賞した人間の人格の麗しさや実績の卓越性が、賞を与えた側の鑑識眼の高さや権威を支えている。

 ノーベル賞が立派な賞だと言われるようになったのは、賞金額が大きいからでもアカデミーが立派だからでもない。これまでに受賞した各界の学者や芸術家がいずれも偉大な業績を残した人物だったことの積み重ねによるものだ。

 国民栄誉賞は、この点において、まだ実績が足りない。
 その時々の国民的英雄の人気のおこぼれにあずかろうとする政権の思惑が露骨過ぎて、見ているこっち側からすれば、賞が受賞者に追いついていない。

 ノーベル文学賞が、新たな受賞者としてボブ・ディランを選んだことは、今後のノーベル文学賞の方向性や対象ジャンルを変える結果をもたらすかもしれない。

 さらに言えば、今回のボブ・ディランのノーベル文学賞受賞は、「文学」という言葉の守備範囲なり定義を、まるごと無効化させるきっかけにもなりかねない。
 それが良いことなのか悪いことなのか、私にはわからない。

 ボブ・ディラン本人にとってノーベル賞がどういう意味を持つのかも、私の立場からはなんとも言えない。

 ただ、私個人にとって、受賞はうれしい驚きだった。
 というのも、私にとっては、今回のノーベル文学賞は、自分が心の底から敬愛する人が受賞したはじめての賞だからだ。

 もちろん、過去に受賞した偉大な文学者の著作をまったく読んでいないわけではないし、その偉大な彼らの業績に私が敬意を抱いていないというのでもない。

 ただ、中学生の頃からのアイドルが受賞したことには、やはり特別の感慨があるということだ。