弱っている人間に
「死んだら負けだ」
 という言葉を投げかける松本氏の態度を、あるタイプの人々は、「アルプスの少女ハイジ」の中で、主人公のハイジが脚は治っているにもかかわらず歩き出せない親友のクララに向かって
「クララのバカっ! 何よ、意気地なしっ!」
 という叱咤の言葉をぶつけたあの名場面と同じ感覚で受け止めているのかもしれない。

 実際、ふたつのエピソードの外形は似ていなくもない。

 ただ、ハイジの言葉は、長らく一緒に過ごしている親しい友人であるクララに向けて、涙とともに発せられた、最後の手段と言っても良いギリギリの言葉だった。
 ドラマのクライマックスを演出する中で、一見残酷に見える言葉が、実は必死の情熱の発露であり、その必死の言葉が奇跡を生むというストーリー展開は、あってしかるべきものだろう。

 が、現実の世界で、テレビの中の有名人が不特定多数の自殺志願者に向けて、逆説的な励ましの言葉を述べたところで、奇跡が起こる保証はない。

 私は、松本氏の言葉が「非人情」だとか「残酷」だと言っているのではない。
「障がいは言い訳にすぎない」
 のポスターをプッシュしていた人たちが、世にも悪辣な差別主義者だと断じているのでもない。

 彼らは、「非情」であったり「残酷」であったりするよりは、むしろ「スパルタン」で「マッチョ」な自己責任論者というべき人々だ。

 「障害者であれ健常者であれ人間は誰でも、個々人が直面している個人的な逆境に負けることなく、絶えざる努力と克己の精神によってそれらを乗り越えるべきだ」

 という思想を抱いている、自己超克型の人間なのだと思う。
 その彼らの思想が、間違っていると言いたいのでもない。

 自己超克もしばき上げも、本人が自分を律する分にはかまわないし、大いに奮闘してもらいたいとも思っている。
 ただ、その種の人生観は他人に求めるにふさわしいものではないし、見知らぬ人間に強要して良いものでもない。まして、上の者が下の者に、強いものが弱い者に求めると、単なる迫害になる。

 私自身は、「死んだら負け」みたいな考え方をする人々とは正反対の人生観を抱いている。
 いや、「死んだら勝ち」と考えているのではない。

 一言で言えば、私は、自分に許される環境の中で最大限に快適に暮らすのが良い人生なのだというふうに考えている。

「それじゃ進歩がないじゃないか」
 と言う人には
「ないよ」
 と答えておく。

 ただ、進歩や向上が自分にとって快適であるような分野や場面に直面したら、私も自分なりに上を目指すはずだとは思っている。

 これまでのところを振り返った部分で話をするなら、私は、自分にとって快適でない環境から逃亡し続けた結果として、現在いる場所にたどり着いたのだと思っている。

 もし、私が、置かれた場所で咲くことを至上命令として、逆境の中でたゆまぬ努力と忍耐を傾けるタイプの人間であったなら、私は、12秒台前半で走る陸上選手であったことだろう。

 新卒で就職した企業で残業を嫌がらず、慰安旅行を拒絶せずに仕事に励んでいれば、いまごろ私は課長ぐらいにはなっていたかもしれない。いや、もっと頑張ればあるいは役員にのぼりつめていたかもしれない。

 でも、逃げてズルけて怠けてグズった結果としての現在の位置に、私はおおむね満足している。
 なので、現状に苦しんでいる若い人たちには、この場を借りて
「逃げるが勝ちだぞ」
 ということをお伝えしておきたい。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

私も愚直に経済ニュースだけを追い続けていれば今ごろは……
いや、オダジマさんの担当もこれはこれで快適、おおむね満足?

 なぜ、オレだけが抜け出せたのか?
 30 代でアル中となり、医者に「50で人格崩壊、60で死にますよ」
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上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白

<< 目次>>
告白
一日目 アル中に理由なし
二日目 オレはアル中じゃない
三日目 そして金と人が去った
四日目 酒と創作
五日目 「五〇で人格崩壊、六〇で死ぬ」
六日目 飲まない生活
七日目 アル中予備軍たちへ
八日目 アルコール依存症に代わる新たな脅威
告白を終えて

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■変更履歴
記事掲載当初、本文中で「パラバドでは」を「主語」としていましたが、これを「前提条件」に修正します。また、5ページ冒頭に段落を一つ補います。ご指摘をありがとうございました。 [2018/10/19 8:45]
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