誰かが政治について論争をしていると、君らの言い分はともかく、論争というのが良くない、と、上司はどうせそう言って仲裁をして、言い分も聴かずに論争をおさめて乾杯させようとするに決まっている。そんな社会の中では、政治について真面目に考えようとする気なんて起こるものではない。

 私たちは、異なった意見が互いに対立することになる現場を恐れ、論争を恐れ、もしかしたら、生身の人間が真面目に対話することにすら、生理的な恐怖を抱いている。

 ギリシアの市民は、われわれ日本人が天気の話や野球の話題を話す時みたいな調子で、ごく気軽に国防の話やEU離脱のような政治向きの話題を語り合っているという話を聞いたことがある。彼らは、カフェや路上で気軽に政治の話題を掲げ、時に激しい論争になったりしながらも、それでいて、後を引いて険悪な関係になることもなく、その場の議論を楽しんでいるのだという。

 この話は、又聞きの又聞きみたいな話なので、実際のところ、自分が見たわけではない。
 ただ、日本の社会で政治向きの話題がタブーになっている点についていうなら、私が20代の若者だった1980年代とくらべてみても、その傾向が強まっていることはたしかだと思う。

 昭和の時代は、政治向きの論争に限らず、社会の様々な場所で、軋轢や摩擦や喧嘩や論争がいまよりもずっと多かった時代で、それが良いことなのかどうかは別に、その時代に生きていた人間は、21世紀の人々よりも、ずっと争いごとに対してタフでもあれば無神経でもあった。

 その同じ日本人が、理由はわからないけれど、この20年ほど、表立った場所で声を張り上げて口論をすることの少ない人たちになっている。

 私は、日本人が争いごとをますます嫌うようになっていることと、若い人たちの投票率が低迷していることには、何らかの因果関係があるのではないかと思っている。

 たいした根拠のある話ではない。
 エビデンスもない。
 忘れてもらってもかまわない。

 ともかく、政治の話題がタブーになればなるほど、政治の話を持ち出すことのリスクは高くなり、また、政治的な場での論争が険悪な人格攻撃に着地するケースも増えるわけで、この負のスパイラルは、どうにも止めようがない。私たちは、とてもやっかいな局面に到達していると思う。

 2年前の7月にこんなツイートを書き込んだことがある。
《ふと気づいたんだが、相手が高校時代までに知り合った友だちだと、政治的な意見の違いはまるで気にならない。ネトウヨじみた言動があっても愛嬌のひとつぐらいにしか思わない。でも、これが大学以降に知り合った人間だと、そうはいかない。バカとは付き合いたくない。どうしてだろう。》(こちら

 このツイートの中で言っている「高校時代の友人」というのは、15歳から20歳になるまでの間の丸々5年間ほどの期間を、毎日のようにツルんでいた人間で、それこそ家族構成から好きな食べ物から、女性の好みまで、すべてわかっている相手だ。

 そういう相手の言うことであれば、たとえば、政治的に相容れない意見であっても耳を傾けることができる。