ただ、SNSが明らかにしたことのひとつに、ある分野について信頼できる専門家が、別の分野ではまるで頼りにならないケースが珍しくない、ということがある。

 というよりも、誰であれ専門家というのは、自分の専門分野以外では使いものにならないからこそ専門家としてやっていけているものなのかもしれないわけで、私自身、たとえば、ボクシングの世界の歴史や現在については、いつも素晴らしい見識やインスピレーションをもたらしてくれるのに、ほかのスポーツの話になるととたんにピント外れの話をはじめる人の例を知っている。

 ともあれ、政治のような総合的な話題については、全面的にあてにできる専門家はいないと考えておいた方が無難だ。

 でなくても、われら素人には、専門家と扇動者の区別がつかない。工作員と研究者の区別もつかない。
 とすれば、自前のアタマで考えるほかに方法がないではないか。

 今回の選挙については、いつにも増して、専門家の話があてにできないと思っている。
 なぜなら、いま展開されている泥仕合は、しかるべきルールや昔ながらのパターンから外れたバトルロワイヤルであり、個々のプレイヤーが本能と反射神経だけで動いている「羅生門」じみたカオスだからだ。

 死者の頭髪を引き抜く老婆やその老婆の衣服を剥ぎ取って逃げる男の行動を分析するのに、まっとうな戦術論は適用できない。

 まして、後付けの解釈ならともかく、進行形の時間の中にいると、現実は常に変転していて、定まった様相に落ち着くことがない。であるからして、昨日起きた出来事と、今現在目の前で展開されている状況のつながりが見えなかったりする。歴史というのは、未来の時点から時間を遡って見ているからこそ見える特殊な景色なのであって、船に乗っている人間にすべての港が見えないのと同じように、生きて動いている人間の目には、進行中の出来事や事物の間にある因果は見えない約束になっている。