今週も選挙の話題に触れなければならない。
あまり気がすすまない。
政治まわりの話題の中でも特に選挙の話は、必ずや興奮した人たちを呼び寄せるからだ。
興奮している人たちは、他人と対話をすることができない。
そもそも政治とは、他人との対話を前提とした動作であるはずなのに、なぜなのか、政治に熱意を持っている人の多くは、相手の話に耳を傾けようとしない。
それで、賢い人たちは政治の話をしたがらないのだと思う。
もっとも、賢明な人間が政治の話題を遠ざけているという私のこの観察自体、私の個人的な思い込みに過ぎない可能性はある。
別の見方をする人たちもいる。
政治に熱中している人たちは、政治の話題に無反応な人たちを愚か者だと思っていたりする。
別の言い方をすれば、政治的な考えにとりつかれている人間は、他人を敵と味方に分類する形で世界に対峙しているということだ。彼らにとって、味方にも敵にも分類することのできない人間は、間抜けなのだろう。
言うまでもないことだが、すべての人々がすべての事柄に詳しいわけではない。
ある人々はAに詳しい一方で、Bには詳しくない。
別の人々はBには精通しているものの、Aについてはろくな知識を持っていない。
どちらが賢いと言っているのではない。
人々の関心領域と知識量はそれぞれに偏っていて、相互に補完しあっているということだ。
であるから、科学に詳しい人が政治関連の話題に疎いというようなことはごく普通の話だし、だからといってその人間が知的に劣るわけではもちろんない。
個人的には、持って生まれた知的な能力を政治とは無縁な方面に振り向けている人がいるのだとすれば、その人間はむしろ賢明なのだと思っている。
であるから、私は、自分が詳しくない分野については、信頼できる専門家の助言に従うことにしている。
もう少し率直に言うと、私は、自分で判断できなかったり、一から考えるのが面倒くさかったりする事柄や話題に関しては、信頼できそうな専門家の意見を鵜呑みにすることで間に合わせているということだ。
ただ、SNSが明らかにしたことのひとつに、ある分野について信頼できる専門家が、別の分野ではまるで頼りにならないケースが珍しくない、ということがある。
というよりも、誰であれ専門家というのは、自分の専門分野以外では使いものにならないからこそ専門家としてやっていけているものなのかもしれないわけで、私自身、たとえば、ボクシングの世界の歴史や現在については、いつも素晴らしい見識やインスピレーションをもたらしてくれるのに、ほかのスポーツの話になるととたんにピント外れの話をはじめる人の例を知っている。
ともあれ、政治のような総合的な話題については、全面的にあてにできる専門家はいないと考えておいた方が無難だ。
でなくても、われら素人には、専門家と扇動者の区別がつかない。工作員と研究者の区別もつかない。
とすれば、自前のアタマで考えるほかに方法がないではないか。
今回の選挙については、いつにも増して、専門家の話があてにできないと思っている。
なぜなら、いま展開されている泥仕合は、しかるべきルールや昔ながらのパターンから外れたバトルロワイヤルであり、個々のプレイヤーが本能と反射神経だけで動いている「羅生門」じみたカオスだからだ。
死者の頭髪を引き抜く老婆やその老婆の衣服を剥ぎ取って逃げる男の行動を分析するのに、まっとうな戦術論は適用できない。
まして、後付けの解釈ならともかく、進行形の時間の中にいると、現実は常に変転していて、定まった様相に落ち着くことがない。であるからして、昨日起きた出来事と、今現在目の前で展開されている状況のつながりが見えなかったりする。歴史というのは、未来の時点から時間を遡って見ているからこそ見える特殊な景色なのであって、船に乗っている人間にすべての港が見えないのと同じように、生きて動いている人間の目には、進行中の出来事や事物の間にある因果は見えない約束になっている。
今回の選挙でも、ほんの3日前には現実に見えていた景色が、進行中の事態に上書きされて、意味を失い、あったことも、ありそうに思えたことも、言葉も、記憶も、約束も、希望も、すべてが不断に更新され、姿を変えながら、先に進んでいる。
このどうにもあやふやな状況の中で、多少ともマトモな判断を下すためには、登場人物の言動をひとつひとつ時系列に沿って並べ直し、それぞれの言葉や出来事や約束や裏切りや変化を、いちいち関連付けて記録しておくしかない。
そうでないと有効な判断はできない。
前半12分に味方のシュートがクロスバーを叩いたことや、後半の22分に不当な判定により敵方にPKが与えられたことも、0-3のスコアでゲームが終わってみれば、敗北のスコア以外のほとんどすべては記憶に残らない。
そしてそのスコアさえ、シーズンが終了して順位が確定してしまうとエクセルの一つのセルの中の数字以上のものではなくなる。
最終的な着地点からだけでは、主人公の言動の一貫性を見ることができないし、裏切りを予測することもできない。
ひとつ、些末だが具体的な話をしよう。
希望の党が公認候補の入党希望者に署名を求めたといわれる「政策協定書(こちら)」の存在が明るみに出た(ツイッター上に流出した)10月2日の夜、私は、ツイッター上に、
«小池ショー
よくよく見れば
濃い化粧»
というツイートを放流した(こちら)。
案の定、
「明らかな女性差別ですね」
「ルッキズムです。削除してください」
「ミソジニー野郎と見て良いわけだな」
という感じの反応が押し寄せた。
まあ、こういう書き方をしたら、こういう反応が返ってくるのは仕方のないことだ。
しばらく後になって、押し寄せたリプライに対して、脊髄反射の反論を試みた。
«だからこれはミソジニーだとか性差別だとかルッキズムだとか、そういう話ではなくて、本質を押し隠して選挙民を欺罔せんとする政治手法を「化粧」という言葉にたくして表現した……とかなんとか言っても、ムダなことはよくわかっているのですが、一応当方の言い分は言っておくことにします。»(こちら)
このツイートがほんの一部分の弁明にしかなっていないことは、残念だが認めなければならない。
「仮にツイートの主旨が本質を糊塗する政治手法への批判なのだとしても、わざわざ語呂を合わせに行ってるわけだから、ついでであれなんであれ化粧の濃さを揶揄していることは否定しきれないだろ?」
「実際、濃いわけだし」
おっしゃる通りだ。私のツイートの本旨は、あくまでも小池都知事の政治手法への疑念だが、わざわざ語呂を合わせた意図を問われたのでは、ひとたまりもない。はいそうです。意図的に揶揄いたしました。認めます。不当でした。思いついてしまったネタをどうしても黙っていることができませんでした。すみませんでした。
個人的に面白かったのは、反発のリプライ以外に、
「こういう言い方は、かえって小池百合子氏を利することになるので、できればやめてほしい」
「石原のオヤジと同じで、こういううかつな攻撃は相手の得点になるよ」
という感じのアドバイスがいくつか寄せられたことだ。
なるほど。そういえば、たしかに昨年の都知事選では、石原慎太郎元都知事に「厚化粧の大年増」という言葉で罵倒されたことが、結果として、小池百合子氏にとって追い風になったものだった。
もしかしたら、私のバカなツイートも、そのバカさゆえに、女性の進出を喜ばない男社会からの不当な弾圧と闘うジャンヌ・ダルクの物語を補強するケチな舞台装置になってしまうのかもしれない。
この点については、私のツイートに先立つ9月30日の段階で、斎藤環さんがそれとなく指摘している。
«小池さんのすごいところは、彼女に対するいかなる批判もミソジニー色に変換してしまう特殊能力(というか立ち位置)ではないか。もはや反論すら必要ないレベル。こんな強力な楯を手にした政治家に誰が勝てるというのか。»(こちら)
この見方自体をミソジニーとする人々もきっといるはずだ。
私は、そうは思わない。
いまのところ、大筋において、斎藤さんの見方に同意している。
小池百合子氏の政治手法を記録し、批判するのに、わざわざ化粧の濃さに言及した態度は不適切かつ非礼だった。
この点に関しては、小池百合子さんに対してだけでなく、全女性、というよりも日常的に化粧をしているすべての人々に対して謝罪しなければならないと思っている。
申し訳ありませんでした。
誰かが女性であることは、そのこと自体として、批判される理由にはもちろんならない。同時に、批判を控えるべき理由にもならない。つまり、大人として社会の中で生きている人間の業績や言動は、性別とは無縁な基準で評価されるべきだということだ。
独裁的な手法で部下に対していることや、質問に答えないことや、前言を翻すことについては、男女を問わず、批判されなければならない。そういう意味で、私は小池百合子さんのこの一週間の言動には不信感を抱いている。
来週の火曜日に迫った公示日までに、小池さんが私のこの不信感を排除してくれることを願っている。まあ、対話してもらえるとは期待していないのだが。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
メイクさんを取材したことがありますが、奥が深い!
化粧は隠蔽ではなくて、主張なのだと思いました。
当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。相も変わらず日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。
この記事はシリーズ「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。
Powered by リゾーム?