大阪市が、サンフランシスコ市との間で取り結んでいた姉妹都市の提携を解消するのだそうだ。
伝えられているところでは、吉村洋文大阪市長は、10月2日付けで姉妹都市の解消を決断し、その旨を公開書簡として、サンフランシスコ市長宛てに送付したのだそうだ(こちら。公開書簡やその和訳はこちらから)。
この情報を、私は、吉村市長ご自身のツイッターへの書き込みを通じて知った(こちら)。
なるほど。
姉妹都市を解消するというのは、具体的にどういう意味を持った措置なのだろうか。
「お姉妹ってことじゃないか?」
ちがうと思う。
姉妹が縁を切っても、いきなりおしまいにはならない。
そんな簡単な話ではない。
タイムラインに流れてきた市長のツイートを読んだ当初、正直な話、私は、市長の意図するところが理解できなかった。
この3年ほど、慰安婦像の設置をめぐって、大阪市とサンフランシスコ市の間でやりとりが続いていたことは承知していた。
ただ、私はこの交渉を重視していなかった。
というよりも
「どうせパフォーマンスだろ」
と思って、タカをくくっていた。
ありていに言えば、吉村市長がサンフランシスコ市議会や市長宛てに説明を求める書簡を送っているのは、コアな支持層に向けて演じてみせている軽歌劇みたいなものなのだろうと考えていた次第だ。
それが、ここへ来て、書簡への返事が来ないことを理由に、いきなり姉妹都市の提携を解消する決断に踏み切る事態に発展している。
この展開には少なからず驚かされた。
引っ込みがつかなくなって暴走したということなのだろうか。
それとも、
「ほんまにお姉妹やで」
という洒落のつもりだろうか。
起こっていることの全体像をなんとか把握できるようになったのは、各方面のサイトや情報源を当たって、そこに書いてある様々な記事を読み進めた後の話なのだが、正直なところ、いまだに疑問点だらけだ。自分の中でうまく整理できていない。
本来なら、こんな状態で原稿を書きはじめるべきではないのだろう。
ただ、読者の多くも、混乱だらけの情報源に翻弄されている点では、私とたいして違わないはずだ。
とすれば、この先、この問題についての議論が野放図に拡散するのか急展開するのか、それとも二極化して泥沼化するのかはともかく、手探りの状態でのとりあえずの感想を書き留めておくことは、無意味ではないはずだ。そう思って、現時点で私の目に見えている景色を記録しておくことにする。
最初にお断りしておくが、サンフランシスコの市有地に慰安婦像を建てることの是非について、この原稿の中で明確な結論を提示しようとは思っていない。
私自身、慰安婦像がどんなふうに扱われるべきであるのかについて個人的な見解を持っていないわけではないのだが、それを表明することは控えようと思っている。
理由は、ごく簡単かつ実務的な次元の話で、つまり、めんどうくさいからだ。
もう少し丁寧な言い方をすれば、ある事柄について相容れない見解を抱いているふたつの陣営が、その賛否の対象を「絶対に譲れない一線」として決着を争うことは、少なくとも短期的には、双方を消耗させるだけだと思っているということだ。決着を争うよりは、その対立点をしばらくの間棚上げにしておくほうが賢明だ、と、少なくとも現時点では、私はそう考えている。
だから、これ以上この話はしない。
吉村市長は、しかし、結論を急いでいる。
彼は、サンフランシスコ市に何度も手紙を書いては、その都度慰安婦像の問題へのはっきりとした回答を求め続けてきた。
ご自身も、慰安婦像について明確な見解を明らかにしている。
つまり、市長は、この問題に決着をつけたいと考えており、その考えに沿って行動している。
その結果が、この度の姉妹都市解消の決断だったわけだ。
この問題が勃発した当初から一貫して私が疑問に思っていたのは、日韓両国の間で長年にわたって争われ、いまだに決着を見ていないこのどうにもやっかいな慰安婦をめぐる問題について、一地方都市の首長であるに過ぎない吉村氏が、かくも性急な解決を求めているその理由だ。
大阪市にとって、太平洋をはさんだ向こう側の都市の一角の慰安婦像が引き起こした問題を解決することが、どんなメリットをもたらすというのだろうか。
普通に考えれば誰でもわかることだが、慰安婦像の扱いに明らかな結論を出すことは、大阪市政の改善に寄与する事柄でもなければサンフランシスコ市民にとっての喫緊の課題でもない。当然のことながら、姉妹都市として半世紀にわたって交流してきた両市民の歴史を崩壊させてまで解決を急がねばならない問題でもない。
とすればいったいどうして吉村市長は、この問題の解決に血道をあげているのだろうか。
不思議でならない。
サンフランシスコで暮らす日系米人や、当地に駐在する日本人のビジネスマンやその家族にとって、市有地に建立された慰安婦像がもたらしているあれこれの波紋は、われわれが考えているよりは、ずっと深刻なはずだ。
ただ、現地の日本人社会の受け止め方は、日本で暮らしているわれわれの見方とイコールではない。
実際、当たり前だがサンフランシスコであれ、ほかの米国内の都市であれ、日系人と韓国系の米国人は、表立って対立しているわけではない。
私自身が幾人かの在米の知人から直接に話を聞いた範囲では、当地での東アジア系の住民は、むしろ「肩を寄せ合って」「互いに親近感を抱いて」暮らしている。
たとえばの話、地元で暮らしている限りにおいて、なにかにつけて張り合ったり排除し合ったりしがちな青森県と岩手県の県民が、東京で暮らすことになってみると、互いに同じ東北人として親近感を抱くようになるといったタイプのお話は、おそらくそんなに珍しい事例ではないはずで、まったく同じではないのだろうが、日韓両国民についても似たような事情はあるはずだ。異国で暮らす2つの隣国の国民は、おそらく、自分たちの国にいる時よりは近しい気持ちを抱いている。いくつかの証言が、それを裏付けている。
もちろん例外はあるはずだ。特定の事象や問題については、対立する局面もあるのだろうとは思う。
とはいえ、アメリカの中にいる日本人と韓国人は、互いの差異や食い違いよりも、双方の間にある相似に気付かされる場面が多い。それゆえ、お互いを「なんとなく気持ちが通じ合う」相手として意識している。
であるから、私は、当地の日本人社会が、なんとしても慰安婦像の撤去を求めているのかどうかを、われわれ日本にいる人間が決めてかかってはいけないのだと思っている。
案外、彼らは、
「コトを荒立てたくない」
と思っているかもしれない。というよりも、
「めんどうな争いごとはたくさんだ」
と考えている可能性が高いのではなかろうか。
実際、サンフランシスコで、慰安婦像に対して対抗的な広告を出したり、反対運動を主導しているのは、日本から当地に向かった人たちだ。
この点をひとつとっても、この問題が、サンフランシスコの現地住民で争われている事件ではなくて、日韓両国の愛国者の間で争われている代理戦争である可能性は否定できない。
要するに、争うことで利益を得るのは、当地の人間ではなくて、遠く離れた土地にいて、その争いごとを利用できる立場の人間だということだ。
サンフランシスコ市議会や市長にとっても、韓国系の市民団体が建てた慰安婦像に、大阪市から問い合わせの手紙が寄せられる事態は、単に想定外の対処しにくい出来事なのではあるまいか。
彼らにしてみれば、韓国系であれ日系であれ、同じ市民であり税金を払っているアメリカ人だ。
そのアメリカ人でありサンフランシスコ市民である韓国系の市民が、自分たちの資金で銅像を建てることについて、それを禁じたり撤去を求めることは、市議会にとっても市長にとっても簡単な話ではない。
銅像がアピールしている政治的主張が、一方で国際的な問題を惹起していたり、特定の市民や民族の間に不穏な争いの種をまく危険性を持っているのだとしても、市がいきなり上から排除できるものではない。民主主義を標榜する国家であればあるだけ、市民の政治アピールを抑圧することはむずかしい注文になる。
てなわけで、市としては、せいぜい
「像の建立も、撤去も、それらについてのアピールや反対運動も、市民それぞれの立場でやってください」
と呼びかけるのが精一杯であるはずだ。
勘違いしないでほしいのだが、私は、韓国系の市民が慰安婦の像を建てる決断を支持しているのではない。彼らの行動を称賛しているわけでもない。
ただ、私は、慰安婦像の建立に反対するのであれ、像の撤去を求めるのであれ、それは、外国の一地方都市の市長が、姉妹都市の提携案件を交渉材料に当地の市長に解決を求めるべき案件なのだろうか、ということを申し上げている。
つまり、大阪市のやりかたは、はじめから最後まで、あまりにも筋違いだというのが、ここまでのところで私が書いていることの主旨だ。
仮に、慰安婦像を撤去してほしいというその主張に一定の正当性があるのだとしても、市と市の友好関係と国家間の関係をそのまま対応させるという議論の持って行き方は、道理から外れ過ぎているし、クレームそのものが荒唐無稽に過ぎる。論外だと思う。
吉村市長が「この問題を解決したい」と心から祈念しているのであれば、いますぐ市長を辞職して、国政選挙に打って出るのがものの順序だと思う。でもって、国会議員なり大臣なりに就任して、そのうえで外務省なり官邸なりに圧力をかけるのが正しい筋道だ。あるいは、一市民として、外務省に陳情しても良いかもしれない。
どっちにしても、この問題で市長としての権力を振り回すのは筋違いでもあれば、愚かな振る舞いでもある。外交は、地方政治マターではないし、市長が手を出すべき案件でもない。あたりまえの話だ。
まして、姉妹都市の歴史をチャラにする挙をもって内外にアピールすべき政治的課題でもない。
その程度のことがわからないとはさすがに思えない。
では、市長の狙いはなんだろうか。
中央政界へのメッセージだろうか。
あるいは、自分たちのコアな支持層へのサービスのつもりなのだろうか。
いずれにせよ、対立を煽り、分断を促し、その対立・分断の一方の側に立ってみせる振る舞い方が、集票パフォーマンスとして有効だと考えての決断なのであろう、とお見受けする。
別の見方をすれば、地方政党としては与党でも、全国政党としてはニッチな政治的立場を獲得しに行かざるを得ない弱小政党の立場からすれば、あえて国政マターに関与して炎上を求めることは、党の存続に寄与せんとする捨て身の選択であるのかもしれない。
してみると、吉村市長があえて慰安婦問題に手を出したのは、来年の春に迫った参院選で、もしかしたら消滅してしまうかもしれない日本維新の会への援護射撃でもあれば、将来自分自身が中央政界に打って出る時のための伏線でもあるということだ。
だとしたら、なんともバカな話だ。
あるいは吉村市長ご自身は、愛国心をアピールしているつもりなのかもしれない。
が、私の目には、彼がせせっこましい縄張り根性を誇っているようにしか見えない。
つまり、吉村市長が自ら「愛国心」であるというふうに自覚し、内外にアピールしている心情は、第三者の立ち位置から観察すれば、ムラ社会由来の排外主義以上のものではないということだ。
万国博覧会を招致しようとしている自治体のリーダーがこの方なのかと思うと、アタマがクラクラする。
そもそも、万博は、人種や民族や国籍や国家にまつわる行き違いや対立を超克するべく企画された国際交流のための試みだ。
とすれば、せめて開催期間中だけでも、歴史的な行きがかりや食い違いについては目をつぶらないといけないはずだ。まして、万博の主催都市として手を挙げているリーダーであるならば。
ところが、吉村市長は、一方で万博と統合型リゾート施設の誘致によるインバウンド需要の喚起を訴えていながら、もう一方では、国際対立を煽り、民族間の反感に火をつけ、人々の間にある排外感情の高まりに棹さすことで自分たちの政治的な立場を強固ならしめようと画策しているように見える。
でもまあ、市長が頑張ってあれこれ動いた結果、万博招致とカジノ誘致がおじゃんになるのであれば、それは大阪市民にとってそんなに悪い結末ではない。
シスコのシスターの
カジノの火事は
半鐘がおじゃんで
お姉妹だ
半端な都々逸でしたね。おそまつ。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
姉妹都市解消は極めて異例なことだそうです。
ところで、どちらがお姉さんだったんでしょうね?
なぜ、オレだけが抜け出せたのか?
30 代でアル中となり、医者に「50で人格崩壊、60で死にますよ」
と宣告された著者が、酒をやめて20年以上が経った今、語る真実。
なぜ人は、何かに依存するのか?
『上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白』
<< 目次>>
告白
一日目 アル中に理由なし
二日目 オレはアル中じゃない
三日目 そして金と人が去った
四日目 酒と創作
五日目 「五〇で人格崩壊、六〇で死ぬ」
六日目 飲まない生活
七日目 アル中予備軍たちへ
八日目 アルコール依存症に代わる新たな脅威
告白を終えて
日本随一のコラムニストが自らの体験を初告白し、
現代の新たな依存「コミュニケーション依存症」に警鐘を鳴らす!
(本の紹介はこちらから)
この記事はシリーズ「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。
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