苦しい弁明の中で、同じように小手先のごまかしを繰り出そうとした山尾志桜里議員は、記者たちに
 「説明になっていませんが」
 「どういう意味でしょうか?」
 と、矛盾点を指摘されて追い詰められている。

 ところが、小池百合子氏は、あの不思議なまでに余裕綽々な語り口で、記者を幻惑して会見を乗り切ってしまう。そういう下地を作り、生かす能力を持っている。

 おそらく、積み重ねてきたキャスター経験と政治経験と離党結党経験が彼女に、特殊能力をもたらしたものなのだろう。

 ネット内を見回してみれば、彼女の会見を見て
 「この人、説明能力がゼロだね」
 「何言ってるのかさっぱりわからない」
 と、酷評している人がたくさんいることも事実ではある。

 おそらく、言葉を論理の筋道として解釈している人たちは、そんなふうに感じるのだと思う。
 私の解釈は少し違う。

 小池百合子さんの特殊能力は、「何ひとつ説明していないのにもかかわらずなんとなく周囲を納得させてしまっている」ところにある。つまり彼女に関しては、説明能力が低いというふうに評価するのではなく、「説明回避能力が異様に高い」と考えなければならないということだ。

 ともあれ、この人が前面に出てきたことで、状況はすっかり変わった。
 「小池新党」を「ガキの政党ごっこ」と見てナメてかかっていた首相周辺は、あわてているはずだ。

 仮にガキの政党ごっこだという分析が当たらずとも遠からずなのだとしても、先の都議選で、その「ガキの政党ごっこ」に過ぎなかったはずの都民ファーストの会は、前例の無い圧勝を記録している。ガキをナメてはいけない。有権者がガキ含みである時代、ガキの政党であることは弱点とは限らない。

 希望の党がスローガンとして挙げている政策のひとつに「しがらみのない政治」というのがある。

 正直な話、意味がわからない。
 というのも、「しがらみ」という単語が曖昧すぎて、焦点を結ばないからだ。
 とはいえ、意味がわからないながらも、気持ちはなんとなくわかる。
 ここが非凡なところだ。

 察するに、「しがらみ」は、橋下徹前大阪市長が二言目には繰り返していた「既得権益」とそんなに遠い概念ではなくて、要するに、人間関係がもたらす行きがかりや、過去からのつながりがもたらすなりゆきや、コネクションや義理人情といった、明文化しにくいもやっとした権力の闇を一掃して、ゼロからリセットした環境の中で新しい政治の仕組みをつくっていきましょうではありませんか皆さん的な気分を言語化した何かなのであろう。

 その気持はわかる。
 しかし、「しがらみ」は、政治家の言行の一貫性や、過去に約した約束を守り抜く誠実さを含んでもいる。
 ということは、しがらみを一掃したら、自分の過去や約束や公約をその場限りで適当に捨てることも不可能ではなくなる。