取材についても同様だ。
 レコードショップが消えても音楽配信サイトがあれば、結果としてコンテンツとしての音楽は流通するし、人々の耳に届くことができる。

 ただ、音楽業界の人間に言わせれば、レコード・CDの時代に積み重ねられてきた古い音楽の制作過程や流通経路が滅亡する中で、失われてしまったものが確実にあって、それらは、一度失われると二度と復活できないものでもあるらしいのだ。そういう話が、さまざまな世界にころがっている。

 おそらく、文字を紙に印刷して書店で売ることをやめて、出来上がった文章を直接読者がファイルなりストリーミングなりで受け取る形にすれば、中間過程で費やされていた余計な経費や時間や手間はすっかり不要になる。
 それは、経営的には間違いなく効率的なはずだ。

 しかしながら、事態を逆方向から眺めてみればわかる通り、これまで新聞社が世界中に支局を持ち、雑誌社がボツネタのためにも記者を派遣し、出版社がほとんど売れる見込みのない書籍のために労力を割いていたのは、読者が新聞を定期購読し、電車に乗り降りする度に雑誌を買い求めていたからであり、つまるところ、無駄な本を作るための無駄な労力と無駄な中間経費のための代金を支払っていたからだ。

 ここのあたりの事情をもう少し詳しく説明すると、出版物の制作過程から無駄を省き、経費を節減し、中間過程を省略すると、空振りの取材や、ボツネタのためのアポや、書かない著者が編集者を待たせる待ち時間がまるごと消滅して、結果として、取材時間や、取材人員や、企画を考えるための空き時間が現場から消えることになる。

 と、その種の無駄な時間と手間を原料として生成されていた雑誌の魔法は、次第に効力を失っていくはずなのだ。

 早い話、私の知っているある週刊誌の編集部は、1990年代と比べて3分の1の広さになっている。
 スペースだけではない。かかわっている人間の数や予算はもっと減っている。

 無駄を省き、コストを節減し、選択と集中を徹底しないと、雑誌は立ち行かなくなっている。
 そして、無駄を省き、コストを大量殺戮し、選択と集中を徹底した結果、雑誌からは行間が失われている。

 1980年代の後半から1990年代にかけて、雑誌はまさに黄金時代だった。
 私自身、20代から30代になったばかりで、いまから比べれば無理のきく年頃だったが、同じ世代にはもっと勢いのあるライターがいくらもいたものだった。編集者もおしなべて若かった。そんなこんなで、業界全体に勢いがあった。

 当時行き来のあった書き手は、現在、ほとんど残っていない。
 私のように、30年以上同じ仕事をやっているライターは数えるほどだ。

 ただ、私は、自分が生き残ったというふうにはあまり思っていない。
 原稿を書く仕事から離れて、ほかの分野で成功している人が少なくないことから考えても、むしろ、目はしの利く人間や、ほかに芸のある書き手は早めにこの仕事から撤退したということなのかもしれない。

 ともあれ、90年前後の雑誌黄金期にライターをやっていた人たちは、皆、きらびやかで優秀だった。
 最近は、自分は逃げ遅れたのではないかと思うことが多い。

 「新潮45」は、表向き「休刊」という言葉をアナウンスしている。
 つまり「廃刊」という最終的な言葉は使っていないわけだ。

 ということは、理屈の上では、復刊の余地はあるのだろうと思っている。
 10年後くらいに「新潮75」あたりの名前で復刊することがあるのであれば、ぜひ寄稿したいと思っている。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

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 なぜ、オレだけが抜け出せたのか?
 30 代でアル中となり、医者に「50で人格崩壊、60で死にますよ」
 と宣告された著者が、酒をやめて20年以上が経った今、語る真実。
 なぜ人は、何かに依存するのか? 

上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白

<< 目次>>
告白
一日目 アル中に理由なし
二日目 オレはアル中じゃない
三日目 そして金と人が去った
四日目 酒と創作
五日目 「五〇で人格崩壊、六〇で死ぬ」
六日目 飲まない生活
七日目 アル中予備軍たちへ
八日目 アルコール依存症に代わる新たな脅威
告白を終えて

 日本随一のコラムニストが自らの体験を初告白し、
 現代の新たな依存「コミュニケーション依存症」に警鐘を鳴らす!

(本の紹介はこちらから)