編集部が原稿を受け取って、活字の形で世間に流通させた以上、文責は編集部にある。
 それを、社長が「常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現」と言い切ってしまったのではどうしようもない。

 書き手は、ハシゴを外された形になる。
 編集部としても、社長にこんな言い方をされたのでは、仕事のすすめようがない。
 なんとも悲しい話だ。

 雑誌が消滅することは、単に書店の書棚から書影が消えるだけの話ではない。
 月刊誌が消えることは、月刊誌への執筆機会を積み重ねることで筆力を養っていたノンフィクションライターの卵たちが壁にぶつかって潰れるということでもあれば、月刊誌が提供してくれる取材費を糧に関心領域への地道な地取りを続けていたライターが廃業を余儀なくされるということでもある。新聞やテレビがあまり扱わない、調査報道に費やされるべき人員と予算が雲散霧消することでもある。

 ついでに言えば、週刊誌が衰えることは、事件取材の層が薄くなることでもあれば、人間の手足と目と口でとらえた現場の空気が読者に伝わらなくなることでもある。

 いずれにせよ、雑誌の死は、単に紙の上の活字が消えるだけの変化ではない。
 それは、読者たるわれわれが世界に対峙する視野が少しずつ狭くなることを意味している。

 レコードがCDになり音楽ファイルになり、配信コンテンツに変貌して行く過程で、レコードショップが消滅し、プレス工場が更地になり、アナログの楽団やその演奏者が失業し、巨大なスタジオがビルの1室にまるめこまれたように、また、写真が紙焼きから画像ファイルに身を落とすたった15年ほどの期間の間に、フィルムメーカーが倒産し、現像所が消え、日本中の街角から写真館とDPEの窓口が消失したのと同じように、雑誌が活字として紙に印刷される形式から液晶画面上の画素の明滅にとってかわられることになれば、それらは、順次刷られなくなり、配本されなくなり、手売りされなくなる。そしてこれらの変化は、編集、印刷、製本、取次、配本、小売、という活字にまつわる一大産業が裾野の部分からまるごと消滅することを意味している。

 「コンテンツとしての文章は不滅なんだし、人が文章を読むという行為そのものが消滅することはあり得ないのだから、そんなに心配する必要はないよ」
 と言っている人もいる。

 もちろん、大筋において、彼の言っていることに間違いはない。
 ただ、雑誌なり新聞なりという「形式」を成立させていた営為は、その形式が消えれば自動的に消滅するはずで、私は、その部分に大きな危機感を抱いている。

 このあたりの機微は、ちょっとややこしい。
 なんというのか、われら出版業界の人間が20世紀の雑誌の世界でかかわっていた「文章」は、単なる個人的なコンテンツではなくて、もう少し集団的な要素を含んでいたということだ。

 で、そのそもそもが個人的な生産物である文章をブラッシュアップして行くための集団的な作法がすなわち「編集」と呼ばれているものだったのではなかろうかと私は考えている次第なのである。

 してみると「編集」は、一種の無形文化財ということになると思うのだが、その「編集」という不定形な資産は、この先、文章というコンテンツが単に個人としての書き手の制作と販売に委ねられるようになった瞬間に、ものの見事に忘れ去られるようになることだろう。

 書き手がいて、編集者がいて、校閲者がいて、そうやってできあがった文字要素にデザイナーやイラストレーターがかかわって、その都度ゲラを戻したり見直したりして完成にこぎつけていたページは、ブロガーがブログにあげているテキストとは別のものだ。

 ここのところの呼吸は、雑誌制作にかかわった人間でなければ、なかなか理解できない。
 で、その違いにこそ「編集」という雑誌の魔法がはたらいていたはずなのだ。