それが、現在は、そうでもなくなっている。
 高給の設定は、すでに裏切られつつある。昇給率はより確実に反故にされる見込みだ。

 つまり、昔みたいに黙っていてもどんどん昇給して行く夢のような生活はもう二度と再現されないだろうと、誰もがそう感じているのが現状のメディア業界人の共通認識だということだ。

 で、中の人たちのそうした悲観的な見込みを反映した結果なのか、就職戦線における優位にも影が差している。
 就職希望者が減っているのはもちろん、内定者がすんなり入社せずにほかの業界を選ぶ傾向も年々高まっている。

 つまり、現役の就活生たちは、マスゴミを敵視して突っかかって来ているワナビーの人々よりもさらに手厳しい人々なわけで、彼らはそもそもマスコミを第一志望の入社先として選ばなくなっているわけなのだ。

 今回の休刊は、この傾向(つまり、若い人たちがメディアを忌避する傾向)に拍車をかける理由になるはずだ。

 具体的な次元では、今回の休刊は、雑誌が「マネタイズできないメディア」であることを自ら証明してみせたのみならず、出版が衰退しつつあるビジネスであり、活字関連企業が斜陽産業であることを内外に広く知らしめるアドバルーンとして機能しつつあるということだ。

 今回、個人的に強い衝撃を受けたのは、9月21日の社長声明の中で、新潮社の佐藤隆信社長が、
《今回の「新潮45」の特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」のある部分》
 に関して
《あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現》
 が見受けられた旨を断言していたことだ。(こちら

 たしかに、小川榮太郎氏の文章は、私の目から見ても、明らかに「常識を逸脱」したどうしようもない駄文だった。
 しかし、一読者である私がそう思うのと、掲載誌を出版している社長がそれを言うのとでは意味が違う。

 私の抱いている認識では、新潮社や文藝春秋といった雑誌系の出版社は、昔から
 「安易に頭を下げない」
 ことで、その看板を保ってきた会社だった。

 念のために補足しておけば、ここで言う、「安易に頭を下げない」というのは、必ずしも、被害者に対する無責任さや利害対立相手に向けてのツラの皮の厚さを指摘するための言い方ではない。

 どちらかといえば、どんなことがあっても身内の人間を守る心意気を称揚する気持ちをこめた言い方だ。 

 もっとも
 「身内を守るためには命を落とすことも辞さない」
 「仲間のカタキはどんなことをしてでも必ず討つ」
 というのは、近代人の倫理コードや企業人の行動原理というよりは、どちらかといえば、より端的に「やくざ」ないしは「任侠」の人々の「仁義」ではある。

 が、雑誌にかかわる人間の内心に、いまなおこの種の「仁義」が共有されていることもまた事実だ。
 その文脈からして、新潮社の社長が、自社の雑誌に寄稿した人間の文章をああいう言葉で切って捨てたことの意味は大変に深刻だ。