なるほど。

 文献を当たれば、それこそ井原西鶴だとか蜀山人あたりが300年前にどこかに書き残していた可能性だってないとは言い切れない。この世界に新しいものはほとんど残されていない。そう思うと、言葉を扱う仕事を続けることのむなしさにしばし言葉を失う。

 つい先日、東京五輪の招致に関連して買収があった旨が報じられた折、とりあえず

 《つまり「お・も・て・な・し」は、「う・ら・が・あ・る」ということだったわけですね。
[共同通信]東京、リオ五輪で買収と結論 英紙報道、招致不正疑惑》(こちら

 というリアクションを書き込んでおいたのだが、この時も、すかさず「プロがパクリはよくないですね」といった調子のパクリ警察方面からのリプライが複数寄せられた。

 ネット上に足跡が残るようになって以来、他人のテキストを読むにあたって、あらゆる方向からの検索を繰り返しながら、書き手のパクリや重複や同語反復や矛盾律やダブスタをチェックしにかかるタイプの読み手が現れたことは、文章を書く人間にとって、災難だと思っている。

 ただ、だからといって、原稿を書く人間が、揚げ足を取られないことを第一の目標に掲げるのは本末転倒で、自分の足跡を振り返りながらものを書く癖を身につけることは、自分の尻尾を追いかける猫が自分の尻尾を追いかけてくる猫の幻影に悩まされて最終的に神経衰弱に陥る事例を見てもわかる通り、建設的な解決策ではない。

 余談が長引いてしまった。

 今回は、「卑怯」ということについて考えたいと思っている。 

 上述のたいして面白くもない解散批評ツイートを投稿すると間もなく、通知欄には、

 「くやしいのう、くやしいのう」

 という感じのリプライがいくつか寄せられた。

 「ん?」

 私は、意外の感に打たれた。

 私自身、解散を示唆する一報に驚いていたし呆れていたのも確かだが、特段に憤っていたわけではない。まして悔しがる気持ちは持っていなかったからだ。

 にもかかわらず、私にリプライを送ってよこしたアカウントは、どうして私が悔しがっていると考えたのだろうか。

 そう思ってあらためて周囲を見回しているうちに、私は、このたびの解散報道に対して、世間の人々が示している反応の中に、私が想定していなかったパターンのリアクションが含まれていることに気づいた。