解散風が吹き荒れている。
9月17日、すなわち今週の日曜日の朝、9時過ぎに目を覚ましてツイッターを立ち上げてみると、解散風は、私のタイムライン上をすでに吹き過ぎようとしていた。なんでもNHKのテレビが朝一番のニュースのトップで伝え、朝日新聞の朝刊も一面に掲載していたのだそうだ(こちら)。
第一報をひととおり眺めたのち、私は、
- 《バックレ解散
- トンズラ解散
- 頬かむり解散
- シカト解散
- 知らんぷり解散》
というツイートを配信した(こちら)。
たいして意味のある書き込みではない。
森友・加計問題の蒸し返し、長期化を嫌ったのだろうな……という凡庸な感想を並べてみたまでのことだ。
この種の脊髄反射コメントを書き込むうえで大切なのは、出来の善し悪しやフレーズとしての完成度よりも、とりあえずはなによりもスピードだったりする。
というのも、この解散にあたって、「バックレ」「トンズラ」「ドサクサ」「自己都合」といったあたりのありがちな言葉は、まちがいなく日本中で何百何千の人間が、ほぼ同時に思い浮かべているはずで、だとすれば、大切なのは、いかに他者に先んじて投稿して、早い時点のタイムスタンプを獲得するのかだからだ。
以前にもどこかで書いたことだが、優れたダジャレやピタリとハマったショートフレーズは、検索してみると、まず間違いなく既出だ。
自分で、
「おお、これは秀逸なフレーズだぞ」
と思って、得意満面でググってみると、必ずや先駆者がいて、すでにどこかの媒体に同じ言葉を書いているものなのだ。
なので、ある時期から、私は、自分が思いついたフレーズに関しては、あえて「念のために検索する」という手順を踏まないようにしている。
良いフレーズには必ず前例がある。
そして、前例が無いようなフレーズは、そもそもゴミだからだ。
2013年9月のIOC総会で、滝川クリステルさんが、例の「お・も・て・な・し」のスピーチを披露した時、私は、その日のうちに
《おもてなし 油断大敵 裏はあり》
という川柳をツイートしたのだが、後からあれこれ寄せられたきたリプライが教えてくれているところによれば、このネタは、滝川クリステルさんのスピーチよりずっと以前の1980年代に、山田邦子さんがテレビで披露していたそのまんまのものであるらしい。
なるほど。
文献を当たれば、それこそ井原西鶴だとか蜀山人あたりが300年前にどこかに書き残していた可能性だってないとは言い切れない。この世界に新しいものはほとんど残されていない。そう思うと、言葉を扱う仕事を続けることのむなしさにしばし言葉を失う。
つい先日、東京五輪の招致に関連して買収があった旨が報じられた折、とりあえず
《つまり「お・も・て・な・し」は、「う・ら・が・あ・る」ということだったわけですね。
[共同通信]東京、リオ五輪で買収と結論 英紙報道、招致不正疑惑》(こちら)
というリアクションを書き込んでおいたのだが、この時も、すかさず「プロがパクリはよくないですね」といった調子のパクリ警察方面からのリプライが複数寄せられた。
ネット上に足跡が残るようになって以来、他人のテキストを読むにあたって、あらゆる方向からの検索を繰り返しながら、書き手のパクリや重複や同語反復や矛盾律やダブスタをチェックしにかかるタイプの読み手が現れたことは、文章を書く人間にとって、災難だと思っている。
ただ、だからといって、原稿を書く人間が、揚げ足を取られないことを第一の目標に掲げるのは本末転倒で、自分の足跡を振り返りながらものを書く癖を身につけることは、自分の尻尾を追いかける猫が自分の尻尾を追いかけてくる猫の幻影に悩まされて最終的に神経衰弱に陥る事例を見てもわかる通り、建設的な解決策ではない。
余談が長引いてしまった。
今回は、「卑怯」ということについて考えたいと思っている。
上述のたいして面白くもない解散批評ツイートを投稿すると間もなく、通知欄には、
「くやしいのう、くやしいのう」
という感じのリプライがいくつか寄せられた。
「ん?」
私は、意外の感に打たれた。
私自身、解散を示唆する一報に驚いていたし呆れていたのも確かだが、特段に憤っていたわけではない。まして悔しがる気持ちは持っていなかったからだ。
にもかかわらず、私にリプライを送ってよこしたアカウントは、どうして私が悔しがっていると考えたのだろうか。
そう思ってあらためて周囲を見回しているうちに、私は、このたびの解散報道に対して、世間の人々が示している反応の中に、私が想定していなかったパターンのリアクションが含まれていることに気づいた。
- 「暴走解散だ」
- 「我が逃走解散だ」
- 「党利党略に過ぎない」
- 「大義なき利己的な判断だ」
という批判がある一方で、
- 「解散は総理の専権事項だ」
- 「どこにも違法性はない」
と胸を張る向きもある。
それとは別に
「人づくり解散だ」
という説明もあるにはあるのだが、これは無視して良いと思う。
私が注目しているのは、今回のような、党利党略に基づいた不意打ちの(というよりも闇討ちじみた)解散を「ずるい」と見なす意見に対して、
「ずるいからこそ信頼できるんじゃないか」
という意外な方向から反論を組み立ててきた人たちがいることだ。
正直な話、私は、政治についてこういう考え方を採用する人々が登場することを想定していなかった。
私個人は、今回の解散は、タイミングとしても解散理由を説明する手順の上でも「論外」だと思っている。
が、私がどう思っているのかは、この際、あまり重要ではない。
私が、本稿を通じて明らかにしたいと考えているのは、「解散にまっとうな理由が必要だ、とする考え方は、果たして有効なのだろうか」というポイントだ。
実際、今回の解散でも、最終的に問われることになるのはそこのところになるはずだ。
議会制民主主義の建前を重視した本筋の考え方からすれば、今回の解散は「暴挙」以外のナニモノでもない。
このことは、自民党の党内から、必ずしも反主流派と言えない人々も含めて、複数の政治家が、解散のタイミングと経緯に疑念を表明していることからも明らかだろう。
自民党の山本一太元沖縄・北方担当相は、17日自らのブログで、安倍晋三首相が臨時国会冒頭に衆院を解散した場合「内閣改造直後の臨時国会をやらず解散総選挙をやることを国民がどう受け止めるか。ちゃんと説明がないままやったら『国民をバカにしている』と思われてしまう」と懸念を示している(こちら)。
元総裁であり、河野太郎外相の父親でもある河野洋平氏の見方はさらに厳しい。
河野氏は、森友・加計問題などで野党が首相や政府を糺すために臨時国会の召集を求めていたことに触れ「一度も丁寧な説明をしないで解散するのは理解できない」と述べ、さらに、「権力者の側が都合の良い時に解散する。過去になかったことではないか」と指摘している(こちら)。
ほかにも、名前を明かさない「党幹部」といった肩書で、解散に対して違和感を表明している人々がいる。
この種の声を最もストレートに表明している文章は、毎日新聞に掲載されている
《熱血!与良政談 乱用どころか暴走解散だ=与良正男》
と題されたコラムだろう。
以上に示した、教科書通りの反応は、別の見方からすれば、単に「古い」考え方でもある。
おそらく、私のツイッターに
「くやしいのう、くやしいのう」
と書き込んできた人たちの言いたいのはここのところで、彼らにしてみれば、
「解散権を持っている側が、その解散権を自分たちに有利な局面で使うことの何がいけないのか」
ということなのだと思う。
だからこそ、彼らは、この解散に苦言を呈する人間を
「くやしいのう」
という言葉で揶揄する遊びを思いついたのだ。
政権与党を支持しない人々が「議会制民主主義の常識」だとか、「解散の大義」だとかいったカビの生えた原理原則を持ち出してアヒャアヒャ踊り狂っているのは、要するに解散権を持っていない一派がくやしまぎれに理想論を振り回している姿に過ぎないわけで、リアルな政治は、そういうものではないよ、というのが、彼らの本心であるわけだ。
この考え方の正否は、実は、サッカーファンの間では、すでにほぼ解決済みの問題である。
最終的な解答は、
「リアルであるべきだ」
ということで決着がついている。
あえて言えば
「ズルいとか、信義に欠けるとか、スポーツマンシップがハチのアタマとか、そういうガキの運動会みたいなこと言ってたってラチはあかないわけで、とにかく勝つために使える手は全部使うのがリアルなジョカトーレだってことだよ。ゴールのためには、ルール上許されている行為はどんなことでもやってのけるべきだし、審判の目の届いていない場所ではルールからハズれた行為だってあえて断行しなければならない。それがマリーシアってものだろ?」
ということだ。
これは、たとえば、トレーダーの世界でも同じだ。
1秒以下で何百億円というカネが行ったり来たりする場所で勝負をしている彼らの間では「法で許されている範囲内のあらゆる手口を使ってカネを稼ぐのが正しい」ことになっている。
たとえば、パナマ文書が暴露され、「タックスヘイブンを利用して節税をするのはいかがなものか」的なお話が話題になった折に、堀江貴文氏は
《パナマ文書のどこにニュースバリューがあるのかさっぱりわからん。普通に個人として無駄な税金納めないのって普通じゃね?》
と、世間のお花畑な議論を一言のもとに切って捨てている。
堀江氏に代表される考え方の持ち主は、ストラテジック(戦略的)に振る舞うことを恥じない。
というよりも、あらゆる場面で自分に有利な選択肢を選ぶのは人間として当然のことで、それをしない人間は、アタマが悪いのか、気取っているのか、でなければものを考えることを面倒臭がる怠け者なのだぐらいに考えている。
であるから、法律に抜け穴があるのならそれを利用するのが当然だし、人々がよく知らない抜け穴を利用することをズルいと考える人間は、つまるところ自分の馬鹿さを宣伝しているに過ぎない、と彼らは考える。
対して、信義や原則を重んじるタイプの人間は、そういうふうに見せかけるべく振る舞っている人間も含めて、誰もが分かち持つ義務のひとつである納税について、そもそも抜け穴を探そうとすること事態が下劣であると考える。まして、その抜け穴を利用して、自分だけ徴税を逃れようとするのは、卑怯者じゃないか、と、彼らは述べるわけだ。
どちらが正しいという話をしているのではない。
われわれは、局面によって、リアルであることを重んじる場合もあるし、倫理的であることを心がける場合もある。
サッカー選手としてはあらゆる卑劣な手段を使うプレイヤーでありながら、当局に対しては正直な納税者である人間もいる。その逆の人間もいる。人は様々だ。
高校生の頃に読んだ『長距離走者の孤独』という小説(アラン・シリトー著)に、「正直さ」についての印象的な独白があったことを覚えている。
以下、記憶の中からの要約なので、必ずしも正確さは保証しないが、ざっとした内容を紹介する。
主人公の少年は、少年院で暮らす不良だ。
その彼の世界に向けた視線が面白い。
彼は、教官や牧師が押し付ける、「正直」や「紳士的」という徳目を、テンから馬鹿にしている。というのも、「正直」だの「ジェントルマンシップ」だのは、恵まれた育ちのお坊ちゃまだの若奥様だのが、午後のハイティーだかの時間を気持ちよく過ごすためにお互いに取り決めている気取りくさったテーブルマナーみたいなもので、オレにははじめっから関係がないからだ。そんなものはオレの生活には全く役にたたない。オレは狡猾(カニング)だ。どんな場合にでも全力でカニングであることこそが、オレのリアルなのだ、といった調子の独白が素敵な小説だった。細かい部分は覚えていない。ストーリーも忘れた。ただ、「カニング(狡猾)」という言葉が素晴らしくて、それを覚えている。
長距離走者の孤独に賛同する高校生だった者として、私も、場面次第では、堀江氏の言っていることのおおよその意味は理解できる。
リアルな場所で生きている者にとって、理想を押し付ける人間ほど腹の立つものはない。それはとてもよくわかる。
ただ、どの場面でリアリズムを発揮し、どの場面で理想を重んじるべきなのかについては、人それぞれで、考え方が違っている。
だから、多くの人にとって、他人は時に耐え難い存在になる。
SNSが個人の説教をあらゆる範囲の無防備な他人に対して無原則に伝えていることは、われわれの世界を大変に腹の立つ場所に変貌させていると思う。まあ、それはまた別の話だが。
ともあれ、私は、今回の解散について、人々の考えの違いが表面化して、その考え方の違いが、選挙の結果を分かつことになるだろうと考えている。
もっとも、この種の「リアリズム」なり「本音ぶっちゃけ主義」が、あらゆる分野で「理想論」なり「お花畑建前主義」を駆逐しているのかというと、必ずしもそういうわけではない。
サッカーの世界でも、「スポーツマンシップの尊重」と「マリーシアの貫徹」のいずれが重視されているかは、リーグによって、年代によって、また、国や時代によって、微妙に違っている。競技別で見比べてみても、ラグビーは、サッカーに比べてより「紳士的」であることを重視する傾向にあるし、ゴルフの不文律はさらに愚直な真正直さをプレイヤーに期待している。要は場面ごとに「リアル」と「プリンシプル」の重要度には濃淡があるということだ。
政治は、選挙や人事や多数派工作のような現実的な局面に関しては、それこそ数とカネと義理人情と恫喝と嫉妬が支配するリアリズムの世界そのものだ。
とはいえ、その一方で、政治は、議会の信義則や憲政の常識や法と精神といった建前に厳しく縛られた原理原則の世界でもある。
私個人は、「選挙を実施するタイミングとして有利だから」だとか「国会の論戦がいやだから」みたいな理由で解散が持ち出されると、それだけで驚愕してしまうわけなのだが、この解散のタイミングについて、「リアルで良いじゃないか」と考える人たちがいることについても、なるべく理解しようとは思っている。
私が今回の解散のタイミングに驚きあきれているのは、私がご清潔な人間だからではない。
損得よりも善悪を重んじる人間だからというわけでもない。
私が驚いたのは、「こんなタイミングで解散をしたら、勝てる選挙も勝てなくなるはず」だと思っているからで、つまるところ、それでもあえて解散の勝負に出た彼らの判断の不思議さにあきれているわけだ。
説明が難しいのだが、私の感覚では、「ずるい」と思われた政治家は、選挙で勝てないはずなのだ。ということはつまり、このタイミングで解散に持ち込んだ政権与党は、実利を取りに行ったようでいて、まさにその「あからさまに実利を取りに行った振る舞い方の下劣さ」によって票を失うことになるはずなのだ。
ところが、首相以下政権与党執行部は解散総選挙に打って出るつもりでいる。
おそらく、リアルな判断を断行する自分たちのストラテジーを評価する層がそれなりにいるという判断なのだろう。
「目先の実利を油断なく取りに行くリアルな判断力と、周囲を見回して一番有利なタイミングで選挙に持ち込むストラテジックな思考のスマートさに、なによりも政治家としてのたくましさを感じる」
という人々も、おそらくそれなりにはいるはずだ。
「ずるいじゃないか」と思う人たちと「狡猾で頼りになるじゃないか」と考える人たちのどちらが多いのかで、結果は分かれるわけだが、それ以前に、案外結果を左右するのは「ずるいとかずるくないとか以前に、そもそも選択肢が無いじゃないか」と考える人たちなのかもしれない。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
ああ、なんということだ。
それじゃカニングの出番がないじゃないか。
当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。相も変わらず日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。
オダジマさんの「文章表現ワークショップ」開催
慶應丸の内シティキャンパス(丸ビルとなり)にて、10月7日より全6回で開講、とのことです。ビジネス文書とは一味違う文章についての演習です。ご興味がおありの方は、
こちらから。
この記事はシリーズ「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。
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