自分と相手との関係を勘案し、その立場の上下や損得から算出した関係式を関数として記憶しておけば、どんな場合でも、「態度」は、自動的に算出される。

 口のききようも、アタマを下げる角度も、ユーモアの出し入れも、すべては方程式に当てはめることで解答の出るルーチンとして処理可能だ。

 だからこそ、あるタイプのおっさんたちのユーモアは、目下の誰かを揶揄嘲弄する文脈でしか発動されないのであり、別のタイプのおっさんの大笑いは、もっぱら上司が繰り出したジョークに反応するリアクションのアルゴリズムとして仕様書に書き込まれているのだ。

 彼らは、会社の駒として語り、動き、笑い、あくまでも特定の組織のひとつの定められた役割として考え、感じ、笑い、働き、徹夜し、訓示を垂れている。

 とすれば、役職を剥がされ、立場を喪失し、外骨格としての会社の威儀を離れ、一人の番号付きの入院患者になりかわった時に、そのおっさんなり爺さんなりが、どうふるまって良いのやらわからず、ただただ不機嫌に黙り込むのは、これは、理の当然というのか、人間性の必然ではないか。

 シンデレラがガラスの靴を脱いだ時みたいに、おっさんの魔法は、背広を脱ぐだけで、あとかたもなく解けてしまう。

 そう思って振り返ってみれば、部下が話を聞いてくれていたのも、得意先の若いヤツが人懐っこい笑顔で話しかけてくるのも、生身のおっさん自身に対してではなかったのかもしれない。若い連中のリスペクトが、おっさんの肩書や立場、つまりは背広への義理立てに過ぎなかったのだとしたら、その背広を脱がされて、入院患者用の業者レンタルの浴衣を着せられたオヤジほどみじめな存在はない。なんとなれば、彼は彼がそれまでそうであったすべてのものの抜け殻だからだ。

 もう少し噛み砕いた言い方をするなら、上下関係と利害関係と取引関係と支配・被支配関係で出来上がった垂直的、ピラミッド的な企業社会の中で身につけたおっさんの社会性は、病院や、町内会や、マンションの管理組合や、駅の雑踏や、コンサートの打ち上げのような場所で期待される、水平的で親和的な社会性とは相容れないということだ。

 とすると、職を剥がれたおっさんは、どうやって長い老後を生きて行ったら良いのだろうか。

 2001年の11月、ある女性誌が、当時都知事だった石原慎太郎氏による、次のような談話を掲載した。

「これは僕がいってるんじゃなくて、松井孝典がいってるんだけど、“文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものは“ババア”なんだそうだ。“女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪です”って。男は80、90歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を生む能力はない。そんな人間が、きんさん・ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害だって…。なるほどとは思うけど、政治家としてはいえないわね(笑い)。まあ、半分は正鵠を射て、半分はブラックユーモアみたいなものだけど、そういう文明ってのは、惑星をあっという間に消滅させてしまうんだよね。」(こちら

 この発言は、当時、問題視されて、ちょっとした騒動になったのだが、いま見れば、まあ、「スベッたジョーク」以上のものではない。いまさら、元知事の不見識を詰ろうとは思わない。

 ただ、この発言から15年の時日の経過を勘案して鑑みるに、石原慎太郎元都知事は、人類にとって有害なのがむしろ「ジジイ」であったことを、自ら証明してしまっていると思う。