もっとも、私自身、万全の社会性を備えているわけではない。

 たとえば、滅多に顔を合わせることのない親族が集まる法事の席に派遣されたり、ものほしげだったり横柄だったり軽佻だったり過剰適応だったりする業界人が何百人も集まる受賞パーティーだとか賀詞交歓会だとかの会場に放り込まれると、私は、無愛想なオヤジとして立ち尽くす以外の対処法をまったく発揮できなくなる。

 こんなことではいけないと内心ではわかっていても、隣の席に座った人に明るく話しかけるとか、不自由そうに歩いているご老人に手を差し伸べるとかいった、年齢の行った社会人として当然身につけているべき所作を、なにひとつ発揮できないまま、毎度毎度不機嫌になって行く自分を制御できないまま終局を迎えることになっている。

 私自身がこんなふうなのは、おそらく、きちんとした社会生活を経験していないからだ。
 新卒で就職した会社を1年もたたずに辞めて、以来、ぶらぶらしたり働いたりを繰り返したあげくに、フリーランスの世界で糊口をしのぐようになった経歴が、現在の私を作っているのだと思う。

 ちょっと脱線します。
 いま「ここう」と入力したら、「孤高」「虎口」「股肱」「糊口」という変換候補が次々と現れて、脳内が回り灯籠になりました。これだからワープロは油断がなりません。

 話を元に戻します。
 要するに、私の「社会人経験」の乏しさが、私をして、社会性の欠落したおっさんならしめたということだ。これについては一言も無い。黙ってうつむくのみだ。

 ただ、病院の爺さんたちや、駅の雑踏を歩くおっさんたちが、21世紀の人間としてのマナーを欠いている問題に関しては、別の文脈に属する話として、別の分析を持ってこないといけない。

 というのも、彼らに一般的な意味で言う「社会性」が欠けているとは思えないからだ。

 日本のおっさんは、職場に置けばきちんと機能する。その意味では、規格外の不良品ではない。事実、彼らの社会である「会社」では、彼は、立派な社会人として通用している。

 ただ、病院は、企業社会とは別の原理で動いている。だから、そこでは、職場のプロトコルが通用しない。となると、おっさんは、何もできない。

 おそらく、病院に放り込まれた爺さんや、駅の雑踏を一人歩く通行人になりかわったおっさんが、まともな態度をとれないのは、彼らが本来あるべき「役割」の外に放逐されている独行者だからなのだ。

 こんなことが起こるのは、一般の企業社会(「ホモ・ソーシャル」という言葉を使っても良い)における「社会性」と、病院や雑踏や家庭やショッピングモールのような職場の外の社会で要請される「社会性」が、かけ離れているからだと、私は考えている。

 企業人ないしは組織の人間としての社会性は、平場の世間では通用しないどころか、邪魔になる。
 だからこそ、街場のおっさんは、歩く凶器と化すのだ。

 オフィス内での上司への気遣いや、同僚との交流や、部下とのやりとりということであれば、彼らは十分にそれらをこなすことができる。得意先との付き合いも、出入りの業者への対応も、アルバイト君への威圧と甘言も、そつなく使い分けられているはずだ。

 というのも、肩書を与えられ、立場を持たされ、ある枠組みの中の特定の役職に就いている限り、あらゆる外部への対処は、あらかじめプログラミングされたプロシージャ(手順)だからだ。