日常的に美術館に通う人間は、全人口のうちの5%(←オダジマによる試算:根拠はありません)程度にすぎない。ふだん美術館に顔を出さないタイプの人間は、何かの拍子に美術館を訪れることになったとしても、たいして感動しない。というよりも、かなりの確率で退屈する。

 一方、野球場に通う人間も、ならして数えればたぶん一般市民のうちの5%程度だ(これも根拠はありません)。そして、ふだん野球を見ない人間を野球場に連れていっても、たいして感動しない。大多数は退屈する。

 ということは、いずれの場合でも、多数派にとって美術館や野球場は不要だということになる。

 それでは、一般の市民にとって美術館も野球場も要らないということなのだろうか。
 そう考えるのはやめたほうが良い。

 5%の市民にとってかけがえのない価値を感じさせる施設は、残りの95%の市民にとって無駄に感じらるのだとしても、なるべくなら、存続させないといけない。それは、大学でも、保育園でも、生活保護費でも、外国人学校でも同じことで、すべてのマイノリティーが、各々にとって不可欠なものを保障されているのでなければ、社会の健康さは維持できないと、そういうふうに考えるべきなのだ。

 大阪維新の会がやってのけたことのうちで、私が特に賛成できずにいるのは、少数派にとっての娯楽である文楽や、少数者が利用する図書館を「無駄だ」と断じて補助金をカットしにかかるタイプの施策だった。

 これは、一見、行政のスリム化に寄与しているように見える施策だったし、多数派の声に耳を傾けた結果であるようにも見えた。が、実のところ、文楽などどうでも良いと考えている関心の薄い人たちの声を拾い上げて、文楽にかけがえのない価値を見出していた人たちの切実な要望を切り捨てた選択だった。

 そしてこれは、あらゆる分野で起こり得る残酷な仕打ちだ。というのも、どんな分野についてであれ、単純に多数決をとったら、その対象に愛情を抱いていない人間の声が多数を占めるにきまっているからだ。

 営利第一を掲げる企業経営の理念からすれば、少数者のための利便やサービスは商売として成立しないのだろうし、そこは「選択と集中」なりで「効率化」して、斉一化したパターンに準拠させた方が得策なのであろう。

 しかし、個々の人間の個別の生きがいや喜びや生存条件は、千差万別であるがゆえに、簡単には効率化できないことになっている。
 むしろ、ここのところの原則は、生物進化学が教える「ダイバーシティ」(種の多様性)の確保に重心を置かなければならない。

 要するに、行政のサービスは、画一化による効率の追求よりも、ダイバーシティの確保による全滅の回避を選んだ方が長い目で見て得策だということだ。

 さて、タバコに関する議論は、美術館や野球や文楽や図書館をめぐるお話と少し違っている。

 なぜかといえば、強く偏愛している人々がいるところまでは同じなのだとして、その彼らの偏愛が、別の人々に強く嫌悪されているところだ。