「多数派の人間の意にかなうというのは、すなわち民主的ということじゃないか?」

 といった調子の橋下徹ライクな理屈を掲げて、あえて単純に考えようとする人もいることだろう。

 しかし、「多数派」「少数派」という二区分法が、いつもわれわれの味方をしてくれるとは限らない。多数派であることが常に正しさを担保するわけでもない。

 あたりまえの話だが、どんな人間であっても、ある局面では少数派に分類されることになる。しかも、これはなかなか気づきにくいことなのだが、われわれは、自分が何かを大切に思っている場面では、ほぼ必ず少数派として分類されているものなのである。

 レアな食べ物を偏愛していたり、昭和初期のゾッキ本やカストリ雑誌を蒐集していなくても、人は少数派になることができる。

 どんなに一般的に見える分野であっても「趣味」に関わっている時点で、その人間は、世間から見て少数派になるということを忘れてはならない。

 たとえばの話、釣りをする人間としない人間を比べてみれば、釣りをしない人間の方が圧倒的に多い。
 であるから、仮に、釣りは自然からの収奪だぐらいな理屈をつけて、素人の釣りを全面禁止するか否かを問う国民投票みたいなものが企画されたら、釣りの存続は危うい。というのも、多数派の人間は、釣りという娯楽がこの世界から消えてなくなっても、ほとんどまったく痛痒を感じない人々であるからだ。

 同じことは、登山を愛好する人間と登山を好まない人間、美術を愛好する人間と美術に特段の関心を抱かない人間の間にも言えることで、両者の人数を単純に比較してみれば必ずや後者が前者を上回ることになっている。

 とすると、「趣味」という言葉をここであえて定義しなおしてみれば、趣味とは「多数派の人間がさしたる重要性を認めていない事物や動作に対して、それがなくては生きている甲斐がないと思い込んでいる少数者が抱いている錯覚ないしは信仰」のことなのであって、してみると、趣味に関わっている時、その人間は間違いなく少数派として、世間の空気から遊離しているのである。

 別の側面から見ると、趣味について、多数決でその存否を決めることができるのだとしたら、生き残ることのできる趣味はほとんどないということだ。

 しかも、ここが大切なところなのだが、世間の多数派に対して、自分が少数派の一員として対峙している時ほど、その人間は、その自分を少数派たらしめている対象に深い愛情を抱いている。ということはつまり、この事態を逆方向から観察すると、何かに対して深い愛情を抱いている人間は、世間から見れば異端者だということでもある。

 なんということだ。
 愛情は、われわれに孤独をもたらすのだ。