室内禁煙をめぐる記事が報じられた9月11日の夜、私は、

小池都知事が打ち出している室内禁煙条例の背景にある戦略は、つまるところ「特定の問題について賛否が分かれている状況では、両派の分断を煽っておいて少数派を迫害する施策を打つことが得票につながる」という判断なのだと思っています。

「世論を二つの陣営に分断して、数の多い側に立つ」みたいな感じの統治技法の流行は、小泉改革や大阪維新のアジテーションの成功を受けてのものなのでしょう。都民は簡単にはひっかからないと思っていましたが、どうやら私の読み間違いでした。

仮にあるリーダーが「副流煙を嫌う多数派の市民」vs「少数派の喫煙者」という構図を作って多数派に付くことで支持を得ることに成功したら、次に狙うのは「税負担を嫌う多数派の市民」vs「福祉や社会保障の対象となるマイノリティ」ぐらいな対立軸の構築だったりするのではなかろうか。

韓国人学校への都有地貸し出し撤回と室内禁煙の条例化は、「少数者への迫害」という点で同質の施策だ。いずれにせよ「都民ファースト」は、「非ファーストの」「セカンダリーな」「二級市民」を想定している。というよりも、二級市民迫害があってはじめて成立する政治運動なのかもしれない。

 という一連の言葉を、ツイッター上に投稿した。

 この時点で私が抱いていた憂慮の念は、現在でも大筋において変わっていない。
 つまり、喫煙の問題は、副流煙にさらされる人々の健康や不快感情の問題である以上に、「マイノリティをどのように遇するか」というより致命的な危険をはらんだ問題だということだ。

 私自身は、2002年にタバコをやめている。
 禁煙するまでの30年間ほどは、毎日50本~60本のタバコを煙に変換するヘビースモーカーだった。

 なのに、なぜなのか、禁煙は、私にとって、いざ決意して臨んでみるとわりとすんなり達成できてしまった課題で、実際のところ、離脱症状に苦しんだのは、3週間ほどに過ぎなかった。

 もっとも喫煙の代償行為なのか、ジャンクフードやら炭酸飲料やらに嗜癖しているきらいはあって、おかげで体重が10キロ以上増えているという事情はある。

 いずれにせよ、禁煙してすでに15年が経過していることは事実で、その点からして、私個人は、室内での喫煙を禁じる条例が施行されたのだとしても、特に困ることはない。

 出先や訪問先で、他人の吐く煙に悩まされないで済むことを考えれば、むしろ、ありがたいと言っても良い。
 勝手なことを言うようだが、タバコをやめてみると、他人の吐き出す煙には、いやな思いをすることが多いからだ。

 私が、ケムリに迷惑しながらも、それでもなお家庭内での喫煙を禁じる条例案に賛成しないのは、それが、大阪維新の会の台頭あたりから目立ち始めている「多数派万能思想」ないしは「多数決絶対主義」の勘違いした民主主義を体現する、マイノリティ迫害の都政における最初の一歩に見えるからだ。