ファンは、きっとアタマに来ていたことだろう。
 彼らは自分の崇拝の対象に対して適切な振る舞い方をしないすべての人間を憎む。
 用心せねばならない。

 シン・ゴジラの話をする前にお断りしておくが、私は、「ゴジラ」を映画館で見たことがない。

 第一作はテレビで見た気がするが、その後はどの作品も、まったく見ていない。
 ついでに言うと「エヴァンゲリオン」も見たことがない。
 なので、できれば、これから書く私の言葉を深読みしないでほしい。
 私自身も、なるべく深読みはつつしむようにする。

 「シン・ゴジラ」は、個人的には、ふだん見慣れている東京の街が破壊される映像を味わうためだけにでも、もう一度見る価値のある映画だと思っている。

 ブルーレイが発売されたら、必ず買うつもりだ。それほど、あの破壊の場面は美しい。

 幾人かの人が、ゴジラの無目的な破壊の様子を、3.11の津波の記憶にオーバーラップさせた視点で語っている。私自身は、特にそういうふうには見なかったが、そういう見方もできるだろうとは思う。

 というよりも、「シン・ゴジラ」はおよそ多様な見方を許す映画で、この、「簡単に要約できないディテールの豊富さ」こそが、この作品を特別な映画にしているのだと思う。

 ディテールばかりで、本筋が希薄だという人があるかもしれない。
 あるいは、伏線がばらまかれるばかりで、きちんと回収されていないという見方もできるだろう。

 が、解決されていないように見える群像劇のディテールは、スクリーン上で結末を与えられていないからこそ観客の心に宿題として残り、その宿題が、おそらく勤勉な映画ファンを再視聴に向けて促している。とすれば、この間のやりとりは作品として成功していると考えて良い。

 でなくても、優れた映画は、脚本に書かれている本筋のストーリーとは別に、観客の脳内に眠っている物語を再稼働させることができる。

 そして、あるタイプの観客の心情を最も深い部分で揺さぶるのは、実は、映画の中の主人公が演じているドラマではなくて、映画の中に仕掛けられたフックに触発される形で観客自身の心の中によみがえる私的な物語の記憶だったりする。

 今回の場合でいえば、会議と調整と調達と徹夜を繰り返すチームの面々が味わう苦闘のディテールが、われら平成の日本人の中に呼び覚ます感覚こそ、おそらく脳内の物語の湧出源になっている。

 私のケースで言えば、それは果てしない徹夜仕事の記憶だ。

 具体的には、蓄積疲労と、苛立ちと、自問自答と、空腹と、アタマの痒みと、突発的にやってくるあからさまな連帯感とそれへの反作用として生じる怒りや悲しみによって到底平常心を保てない中で進行していくスケジュールの記憶だ。

 現在の私は、徹夜仕事とは無縁だ。

 結局、長い目で見て能率が上がらないことを身にしみて知ったこともあって、もう何十年も徹夜はしていない。

 が、そんな私でも20代の頃までは、たびたび徹夜をした。せねばならなかった。せずには生きられなかった。徹夜か、しからずんば死か。

 その苦しい徹夜の記憶を「シン・ゴジラ」は呼び覚ます。