どういうことなのかというと、知事は、「震災時に朝鮮人が殺害された事実」について問い質されている文脈の中で、「さまざまな歴史認識があろうかと思うが」と言っているわけで、これはつまり、知事ご自身が「朝鮮人が殺害された事実」を歴史的な「事実」として受け止めておらず、「歴史認識」の問題として認識していることを示唆している。

 要するに

「朝鮮人が殺されたことを事実だと考えている人もいるのでしょうが、一方には、虐殺を捏造と断じている歴史認識を抱いている人もいるわけで、まあ人生いろいろですよね」

 ということだ。

 歴史認識の話をすれば、朝鮮人虐殺を「事実だ」と考える日本人が大半である一方で、「捏造だ」と主張している人がいることも事実ではある。

 が、虐殺は、当時の政府が公式に認めている事実であり、裁判所には裁判記録も残っている。関東近県の警察はもとより、記者の取材メモや私人の日記や小学生の作文など、虐殺を証拠立てる資料はそれこそ山と積むほど存在している。

 当然、教科書もそう書いているし、歴史家や文学者による書籍も同じように虐殺を「事実」として描写し解説している。

 これを「歴史認識の問題」にすり替えることができるのなら、「ポツダム宣言の受諾」や「原発のメルトダウン」だって、同じように「人それぞれ色々な見方がありますからね」案件として扱えることになる。実際、広い世界には、アポロ11号の月面着陸をスタジオ撮影だと言い張る人たちが生息しているし、ホロコーストをユダヤ人による捏造だと主張している人たちもいまだに滅びていない。

 しかし、都知事という立場にある人間が、朝鮮人虐殺という歴史的事実をつかまえて「様々な歴史認識があろうと思いますが」なんていう言い方をしたら、あらゆるファクトはフェイクに化けてしまう。

 たとえばの話、税務署の人間に対して
「さまざまな税務解釈があろうかと思いますが」
 みたいな前置きで説教をカマすことが可能だろうか? 

 あるいは白バイの警察官に
「様々なスピード計測機器があろうかと思いますが、私の体感では時速38キロです」
 てなことを言ったとして、警察官は、
「なるほど。あなたがそうおっしゃるのなら、速度超過はしていないのでしょうね」
 と、めでたく納得してくれるものだろうか。私は無理だと思う。

 以上、長々と書いてきたが、知事が追悼文の送付を拒絶した理由は、私には解明できなかった。
 「わからない」
 としか言いようがない。

 石原慎太郎氏をはじめ、猪瀬さん舛添さんと、歴代の都知事が毎年送付してきた簡単な追悼文を、例年どおりに送ることで、いったい小池都知事は何を失うと考えたのだろうか。

 反対に、これまで何の不都合もなく継承されてきた慣例に従うことを、自分の代であえて拒絶することで、彼女は何を獲得するつもりなのだろうか。

 あるいは、知事は、誰に向かって何をアピールするつもりで、今回の決断をくだしたのであろうか。
 そこのところがどうしてもわからない。

 小池都知事は、昨年の都知事選を戦うにあたって、舛添前都知事が約束していた韓国学校への都有地の貸与を撤回することを公約に掲げていた。

 都民ファーストという名前は、その韓国人学校への都有地の貸与を白紙撤回する主張を展開する中で浮かび上がってきた言葉でもある。