25日の会見の動画をひととおり視聴して私が強い印象を受けたのは、小池都知事が、最後まで、「虐殺する」「虐殺される」「殺す」「殺される」という普通なら虐殺の犠牲者に対して使われるはずの動詞を一度も発音しなかったことだった。

 知事は、虐殺の犠牲者にも、そのほかの震災関連の犠牲者にも、同じように「亡くなられた」という動詞のみを使っている。

 この「亡くなる」という動詞(語尾が「亡くなられる」となっているが)は、自動詞で英語に直せば“died”に当たる。
 知事の会見をそのまま英語に翻訳すると、かなり奇妙な英文になるはずだ。

 辞書(『研究社大英和辞典』)を引いていて、興味深い囲み記事を発見したので、そのまま引用する。

《 [日英比較] (1) 日本語では病気やけがで死ぬのも, 交通事故や戦争など外的な原因で死ぬのも普通は区別せず「死ぬ」という. ところが英語では日本語と同じく両者に die を用いることも可能だが, 英語の典型的な表現としては, 病気や不注意によるけがなど自己原因で死ぬのは die, 事故や戦争など外的な原因で死ぬのは be killed という. したがって「彼は交通事故で死んだ」は He was killed in a traffic accident. という. これを受身だからといって, 「彼は交通事故で殺された」と訳すことはできない. 日本語でもそういういい方をすることもあるが, その場合には原文の英語とは違ったニュアンスとなる. つまり, 相手に殺意があったというようないい方である. すなわち, 日本語の「殺す」「殺される」は人についていう場合には犯罪としての「殺人」を意味する. ところが英語の kill は外的な要因で動物・植物の生命を奪うことである. もちろん犯罪としての意図的な殺人も含むが, 意味領域はもっと広く, 意図的でない殺し方も意味する. その区別は前後関係によって決まる. 英語では, 意図的な殺人, すなわち日本語の「殺す」に当たるのは murder である. なぜこのような相違が起こるのであろうか. 英語は, 「何が何をどうした」という行為者と被行為者の関係を明確にいう言語である. そこで, 自己原因でない場合は一般に受動態の表現になりやすい. このことについては die, be killed だけでなく, be surprised (驚く), be pleased (嬉しい), be interested (興味を持つ)など類似の例を多数あげることができる. なお, die は自己原因と外的原因の両様の死について用いられるが, 事実を述べる客観的な語で, 多くの場合 died in 1990, died a few years ago のように時の副詞を伴うのが普通である. 》

《英語は「何が何をどうした」という行為者と被行為者の関係を明確にいう言語である》
 という一行は、実に味わい深い。

 災害関連死による死者と、虐殺による犠牲者を、おなじ「亡くなられた」という動詞で一括りに表現する小池都知事の言葉は、行為者と被行為者の関係を曖昧にした状態で語ることのできる言語である日本語だからこそかろうじて意味をなしているが、この会見が英語でやりとりされているのだとしたら、知事の回答は成立しなかったはずだ。

 具体的には、虐殺の犠牲者には、“murder”ないしは “slaughter”という単語を使わなければならない。
 つまり、英語では「行為者」の「行為」を消すことができないということだ。

 同じ会見の中で、小池都知事は、

《追悼文送付の中止で、震災時に朝鮮人が殺害された事実が否定されることになるとの批判がある》

 という記者の指摘に対して

《様々な歴史的な認識があろうかと思うが、関東大震災という非常に大きな災害、それに続く様々な事情で亡くなられた方々に対しての慰霊をする気持ちは変わらない》

 と回答している。
 これも、さらりと言ってのけているが、実にとんでもない言明だと申し上げねばならない。