小池都知事は
《不幸な死を遂げられた方に対して慰霊をする気持ちは変わらない。都知事として、全ての方々への哀悼の意を表することは大変意味の深いことだと思う》
と述べ、さらに
《民族差別が背景にあるような形で起きた悲劇について、追悼文を送ることに特別な意味はないか》
との問いに対しては
《民族差別という観点というよりは、わたくしは、そういう災害で亡くなられた方々、様々な被害によって亡くなられた方々への慰霊をしていくべきだと思っております》
と回答している(こちら)。
あまりにもさらりと言ってのけているので、こちらもついさらりと聞き流してしまいそうになるが、この短い質疑応答の中で、小池都知事は、実に空恐ろしい言葉を連ねている。
「民族差別という観点というよりは……そういう災害で亡くなられた……様々な被害によって亡くなられた方々」
というこの言い方は、知事が朝鮮人虐殺について、民族差別とは無縁な偶発的な出来事である旨の認識を抱いていることを物語っている。
「民族差別というよりは」
というよりは、何だ?
民族差別でないのだとすると、あの集団殺戮は、いったいいかなる心情がドライブした動作だったというのだろうか。
同じ町で暮らしている隣人を、同じ町の住人が多数の暴力によって殺害することが、差別以外のどういう言葉で説明できるのだろうか。
6000人以上と言われている虐殺の犠牲者は、民族差別による殺人の犠牲者ではなくて、一般の災害関連死と同じ「様々な被害」として一緒くたにまとめあげることのできる死者だというのか?
たしかに、震災による死は一様ではない。
建物の下敷きになって圧死した者もあれば、地震の直後に起こった火事で焼死した人々もたくさんいる。迫りくる火炎から逃れるべく川に飛び込んで溺死した犠牲者も大変な数にのぼると言われている。
あるいは、小池都知事は、そういう様々な犠牲者が10万人以上も発生した大災害の中で、朝鮮人の死者だけを特別に追悼することが、公平の原則に反すると考えているのかもしれない。
しかし、民衆による虐殺による死者は、不可抗力の災害による死とは別の枠組みで考えないといけないはずだ。
圧死であれ焼死であれ溺死であれ、災害の直接的な影響で亡くなった死者は、災害の犠牲者として分類することができる。災害を生き延びた人間が、同じく災害を生き延びた人間の手で殺された場合、その死は、災害死ではない。
人間によって殺された死者は明らかな殺人の犠牲者だ。そうカウントしないとスジが通らない。
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