今回の引用についても色々と言われている。

  • 自分の情熱を受け容れない薩摩藩への失望を「煙はうすし」と形容した平野国臣の真意を思えば、この歌を引用したことは、当地の人間に対して失礼だ。
  • 「志士」(命を投げ出して国家・民族のために尽くそうという高い志をもつ人)という言葉を、首相が使ってしまうことの不適切さを理解していない。

 といった感じの声が主流だったわけなのだが、それ以外にも、そもそもこういう場所で「薩長」という枠組みを持ち出したことの無神経さを指摘する声がいくつかあがっている。

 私も、
《しかし、いまこの時に「薩長」なんていうホコリだらけの古道具を歴史の物置の中から持ち出してきた意図は何なのだろう。》(こちら

 というツイートで、疑問を投げかけている。
 ついでに

《薩長イズムとは?

  1. すべての人間を敵と味方に分類する心的傾向
  2. 数をたのんで少数者を威圧する行動原理
  3. 身内びいきと利益誘導で仲間を誘引する人事管理手法》

 という皮肉を投げかけさせてもらった(こちら)。
 あらためて言っておくが、私は、薩長という用語や枠組みに、特段に反発を覚えているのではない。
 山口県や鹿児島県の県民の皆さんに含むところがあるのでもない。

 ただ、「薩長」が、歴史的にも政治的にも、無色透明な言葉ではないことは、少なくとも国政にたずさわる人間は自覚しているべきだと思うからこそ、皮肉を言わずにおれなかったということだ。

 「薩長」は、現職の政治家が無思慮に口に出してよい言葉ではない。なんとなれば、それは、いまだに歴史の怨念を呼び覚ます言葉でもあれば、現在に至ってなお党派的な結びつきを多分に残している物騒な概念でもあるからだ。

 そういう意味で、現職の総理大臣が総裁選に臨む演説の中で援用したことは、軽率と言われても仕方のない態度だった。少なくとも私はそう考えている。

 安倍首相ご本人の気持ちの中では、単に、鹿児島に来たから、リップサービスのつもりで「薩摩・長州」の連合を持ち出した、というだけの話なのかもしれない。

 そのこととは別に、昨年あたりから官邸筋がしきりにPRしている「明治維新150年」を念頭に
 「歴史の変わり目」
 「憲法の見直し」
 「明治日本の再評価」
 みたいなことをアピールする意図で、自民党支持者に受けそうな、歴史がかった言葉を並べてみた、ということなのかもしれない。

 でも、狙ってやっているのであれ、単なる無神経が言わせた言葉だったのであれ、こういう場面で「薩長」のような言葉がポロリと出てきてしまう神経の粗雑さに、私は恐ろしさを感じずにおれない。

 2018年は明治維新から数えて150周年にあたる。そしてその翌年の2019年は平成の最後の年であるとともに、新しい元号で迎える最初の年になる。でもって、そのまた翌年の2020年が東京オリンピック・パラリンピックの開催年に当たる。

 このなんとも、あわただしいこの数年のめぐり合わせは、憲法改正を国是とする政党の党首としては、決して逃すことのできないタイミングに見えているはずだ。

 だからこそ、安倍さんは、桜島をバックに明治維新、志士、薩長同盟、日本を取り戻すなどといった言葉の並ぶ演説動画を発信したのだと思う。