いや、ああいう場面で人々を感心させる俳句を、さらりとひねってみせることのできる人間がそんなに多くないことはわかっている。そんな人間は一部の天才に限られる。
 ほとんどの日本人は、とっさに俳句を求められたら、

 「給料の 上がりし春は 八重桜」

 程度の、何の工夫もない、下世話(←だって仮にも宰相たるものが給料なんかを晴れがましい場の主題に持って来ますか?)かつ不細工(←「春」と「八重桜」は季重なりですよね)な句を捻り出す始末になる。そういうものだ。

 ただ、それならそれで詠まなければ良い。
 事実、ほとんどの日本人はそうしている。
 わざわざ自作の俳句を披露するような出過ぎたまねをあえてせずにおけば、恥をかくことはない。他人にどうこう言われることもない。

 私が安倍さんの国語センスを見限ったのは、この点だ。
 つまり、
 「この程度の俳句をうっかり披露したら、きっと袋叩きに遭うぞ」
 という感覚すら持っていないところが、つまりは、この人の至らなさなのだ。

 ずっと以前、宇野宗佑という政治家が首相になったばかりの頃(この人は首相になってすぐにやめてしまったので、その在任期間のほとんどすべては「首相になったばかりの頃」で占められていた)何かの機会にピアノの演奏を披露したことがあった。

 私は、テレビ越しにそれを聴いて
「へえ、なかなか達者なものだな」
 と思ったのだが、専門家の見方は違っていた。

 ある知人が、
 「よくもまあ、こんなひどいピアノをわざわざ人前で弾けたものだ」
 と論評していたのをよくおぼえている。

 「でも、まるで弾けないよりはいいじゃないですか」
 と私は彼に言ったものだった。というのも、私の耳で聴いても、宇野さんのピアノがたいした腕前でないことは判定できたものの、でも、それはそれとして、弾きたいのなら好きに弾けばいいじゃないかと、私にはそう思えたからだ。

 「それは違うよオダジマくん」
 と、彼は言った。
 「楽器を弾くということは、その楽器の名誉を引き受けることだ」
 「そういうもんなんですか?」
 「でなくても、どんな楽器であれ、ある程度練習してその楽器のことがわかってくれば、自分が人前で演奏して良い腕前であるのかどうかは、おのずとわかってくる」
 「というと?」
 「だからさ。楽器を弾く人間にとって一番重要なのは、他人が聴いてウマいとかヘタだとかいうことじゃなくて、自分が自分の演奏を正当に評価できているのかどうかだっていうことだよ。そういう意味で、宇野さんのあの得意満面な演奏は、自分の技倆を自覚できていないという意味で、どうにも最悪なわけ」

 つまり、楽器を弾く人間は、なによりもまず自分の力量を評価できなければダメで、言い換えれば、音楽に携わる者にとってなによりも大切なのは、技術の巧拙それ自体よりも、自己評価の確かさだということらしいのだ。なるほど。

 これを、安倍さんの俳句になぞらえて言えば、俳句の出来不出来は、まあ仕方がない。
 素人が拙い俳句を作ったことそのものは、少しも恥ではない。
 ただ、自分の俳句の拙劣さを自覚できていなかった点については、弁護の余地がない。
 それは、日本語話者としても致命的な失点になる、と、そういうことになる。