インターネットが残酷な言論の成長を促している側面は間違いなくあるにせよ、ネットの有無にかかわらず「出る杭を打つ」タイプの集団的な反応は、われわれの社会が、基本仕様としてずっと昔から備えているものだ。

 最近の出来事で気になっているのは、リオ五輪が閉会式を迎える前日に当たる8月21日の日曜日、NHKの「おはよう日本」の中で、同局の解説委員が「国威発揚」という言葉を臆面もなく持ち出したことだ。

 放送の中で、刈谷富士雄解説委員は、スタジオ内に設置された巨大画面の中で、「五輪開催のメリット」として、以下の5つの項目を挙げている。

1.国威発揚
2.国際的存在感
3.経済効果
4.都市開発
5.スポーツ文化の定着

 1と2が内容的に重複していること、3の「経済効果」が多くの経済学者によって否定されていることなど、ツッコミどころはいくつかあるが、なんと言っても、「国威発揚」を第一番目に持ってきていることに驚かされる。

 どういう神経なのだろうか。
 ほんの少し前までのNHKであれば、こんな恥ずかしいフリップは、編集会議での提案段階でボツになっていたはずだ。

 たとえばの話、「結婚の5つのメリット」を説明する時に、解説委員は

1.いつでもセックスができる。

 という項目を一番最初に挙げるだろうか。
 いや、私は語られている内容が事実であるのか否かを問題にしているのではない。
 私が言っているのは「たしなみ」の問題だ。

 公共放送の電波を通じて解説の任を担っている解説委員が、ここまであからさまな吐瀉物を視聴者に投げつけておいて、果たして平常心を保っていられるものなのか、そこのところを私は問うている。

 国威発揚は、たしかに、五輪の隠れたメインテーマではある。
 これは、わが国に限った話ではないし、現代に特有な現象でもない。

 実際、「国家的」なイベントである五輪は、様々な機会を通じて「国家主義的」な運動に読み替えられ、利用され、強制された過去を持っている。

 しかし、だからこそ、IOCは国家が前面に出ることを警戒し、五輪憲章の中で、オリンピックを国威発揚のために利用することと、五輪がもたらす栄誉を個人でなく国家に紐付けることを強く戒めている。

 そして、この、実際には空文化しているかもしれない五輪憲章という建前を高く掲げることで、かろうじて五輪は、その権威を保ち得ているわけで、もし五輪の前提から五輪憲章の建前が失われたら、それはただの商売どころかもっと醜悪な人身売買ライクな見世物に堕落して行くだろう。

 毎度のことながら、五輪は、いざはじまってしまえば、必ずや国家の名誉と国民のプライドをかけた争いになる。表彰式自体、国旗掲揚と国家吹奏を繰り返す国家主義丸出しのイベントだったりもする。 

 とはいえ、建前では、五輪の旗の下に集ったアスリートは友情と連帯とフェアプレーの精神を堅持しつつ、スポーツにしか達成できない相互理解の高みに向かって走ることになっている。

 実際にコートやフィールドで戦う選手たちや、それを応援する観客が、熱狂するにつれて「国家」という枠組みに囚われた心情に傾きがちであることが、仮に事実であるのだとしても、競技大会としての五輪を伝えるメディアや、その運営にたずさわる人々が、五輪憲章を軽んじることは、断じて許されない。というのも、五輪の建前は、五輪の現実がこれ以上醜悪にならないためにどうしても不可欠な、最低限の歯止めだからだ。