その意味で、この

「開会式の入場行進で、私たちの国の代表選手たちが、役員の爺さんたちの後ろを歩いていた」

 というニュースは、開会式に関連して伝えられたもうひとつのニュース、すなわち、
《行進中の日本選手団の中に、「歩きスマホ」をしていた選手が一人もいなかった》
 というエピソードとワンセットで考えなければならない。

 日本の選手団は、競技団体の役員やそれぞれのチームの監督やコーチといった「目上」の人間が「引率」する指導対象であって、その意味では、学校の先生に引率されている修学旅行の生徒と大差の無い人たちだったということだ。

 「先生」に引率されている「生徒」だからこそ、彼らは、一定のマナーに沿った統一行動を取れたのであって、彼らは、ほかの国の選手たちのように、特定の競技の第一人者として敬意ある扱いを受けている一人前の大人では無いのだ。無論、自分のアタマで考えて行動する個人でもない。結局のところ、彼らは、列を乱さないためにだけ歩いているひとつながりの隊列の一員に過ぎなかったということだ。

 ついでに申し上げれば、メダルを取り逃がした選手が必ずと言って良いほど、国民の期待に応えられなかったことを謝罪するお約束も、同じ精神性から来ている。

 うちの国の国民の間でずっと信じられている永遠に変わらない設定の中では、スポーツ選手や若手社員や学生は、「発展途上の」「修行中の」「半人前の」人間として、終始目上の人間の指導を仰がねばならないことになっている。これは、日本の一流アスリートが、独立した個人としての娯楽や自由を断念した存在として、ひたすら禁欲的に自分を追い込む修行僧のような生き方を期待されているということでもある。

 1996年のアトランタオリピックの直前、メディアのインタビューにこたえて「オリンピックを楽しんで来るつもりだ」と言ってのけた千葉すず選手は、その後、メダルを取り逃がしたこともあって、「オリンピックを楽しむ」発言を蒸し返されつつ、世にも残酷なバッシングに晒されることになった。

 私は、この時の恐ろしいメディアをあげての総叩きのいじめ報道を眺めながら、テレビ画面を介してスポーツを眺めている視聴者が、選手に対して出征兵士のようなマナーを求めることの不気味さにあきれていたのだが、この、あらゆる競技のアスリートに甲子園球児の似姿を求めるテレビ視聴者のマインドセッティングは、20年が経過したいまでもほとんどまったく変わっていない。

 わたしたちは、選手がくつろいでいたり、冗談を言って笑っていたりすることを決して許さない。

 だから、当然のことながら、選手のインタビューは退屈な紋切り型の展示会に着地する。
 選手にしてみれば、負けたらお詫びの言葉を並べ、勝ったら感謝を表明しておくのが無難だからだ。

 コーチだってそう指導するはずだ。

「インタビューではお気楽に聞こえる言葉は慎め。とにかく謙虚さと必死さをアピールしておけ」
「楽しそうな顔は日本に帰ってからだ。五輪期間中は、カメラの前ではとにかく緊張した表情を作っておけ」

 と、そう言い聞かせておかないと、大切な選手がバッシングの標的になってしまう。

 ついでに、この機会にはっきりさせておきたいのは、選手に対するバッシングが、必ずしもネット主導ではないということだ。

 ネットにタムロする匿名の野次馬が炎上をリードしているように見えることは、たしかにその通りだ。しかしながら、ネットの生まれるはるか以前から、リンチ報道が、この国のテレビのワイドショーの金城湯池だったことを、われわれは、忘れてはならない。

 1996年のアトランタオリンピックは、インターネットとともに楽しまれたはじめての五輪大会だった。

 が、千葉すず選手への執拗ないじめ報道に関して言えば、主導していたのはあくまでも週刊誌でありスポーツ新聞であり朝夕のワイドショーだった。

 昨今、日本人の公共マナーの劣化や、差別や偏見に基づく言論の増加傾向について、その原因と責任をインターネットに押し付ける言い方が一般化しているが、この議論は、起こっていることの半分しか説明していない。