それ以上に私が不気味さを感じているのは、「生産性」という言葉や考え方に、なんらの不自然さを感じない人々の数が増えていることだ。

 最近読んだ、『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』(吉川浩満著、河出書房新社)という本の中にちょっとおもしろい話が出てくる。

 第二章の「生きづらいのは進化論のせいですか?」というインタビュー記事の中で、著者の吉川氏は、質問者に答える形で、こんな話をしている。以下、要約する。

  • ビジネス書や処世術の本では、「弱肉強食」の価値観を標榜するものがよくみられる。
  • いわゆる「進化論」を肯定する人々の中には、弱者や無能者が優遇されすぎている世の中への違和感を語る人々がいて、その彼らは競争の正しさを裏打ちする理論として進化論を援用している。
  • この世界を適応して生き残る者と、適応できずに死んでいく者に分類する考え方として、進化論を認識している人々は、勝ち組/負け組、モテ/非モテのような文脈にも進化論を適用する。
  • 世間に流通している俗流進化論の大筋は、「生物の進化には目的がある」とする考え方から「発展的進化論」を展開したフランスの博物学者ラマルクの思想をもとにしているケースが多い。
  • そのラマルクの発展的進化論を人間社会に適用した、英国の思想家ハーバート・スペンサーの思想が、後に「社会ダーウィニズム」として一世を風靡し、優生学的な態度を広めた。
  • その、スペンサー主義ないしは社会ラマルク主義と呼ばれるべきものの考え方が、社会の中での競争と適応を絶対視し、弱者の滅亡を正当化する競争万能思想に影響を与えている。

 と、以上の前提を踏まえた上で、吉川氏はこう言っている。

《 -略- 適者生存の原理は、「適者は生存する」という法則ではありません。「生存する者を適者と呼ぶ」という約束事であり、そこから仮説を作るための前提です。

 たとえばケプラーの法則は、実験や観察によって真偽を検証することができます。でも適者生存の原理は真偽を検証できるようなものではありません。「結婚していない者を独身者と呼ぶ」と同じように、適者の意味を定義しているに過ぎないのです。 -略- 》

 なんと、われわれは、前提と結論を取り違えているようなのだ。

 で、実際の進化がどのように起こるのかについては、これは、ほとんど「偶然」と「運」に依存している。ある種の「能力」と呼べる資質が生存に関与することはあるが、どの能力がどんなタイミングで生存に寄与するのかということが「運」と「偶然」に左右されている以上、「能力」は、そんなに重要な変数ではないということらしいのだが、このあたりの詳しい内容については、同じ著者の前著『理不尽な進化 遺伝子と運のあいだ』(朝日出版社)に詳しい。興味のある向きは読んでみてほしい。

 ポイントは、「進化論」(ラマルク+スペンサーから借用してきた俗流進化論)が「競争の効用」や「市場原理の正しさ」や「社会の進歩」を言い立てる人々にとっての「お守り」として利用されているということだ。