シンプルな間違いに対しては、シンプルな論評記事を書くべきだという、考えてみれば新聞社として当然の取り組み方を、われわれは小学生向けの新聞から教えてもらわなければならない時代に生きている。
 なんとも、不思議ななりゆきだ。

 財務省による行政文書の改竄が発覚して以来、この社会を成立たらしめていると考えられていた根本的な倫理観が実は既にして崩壊しておりましたという感じのニュースが続いていて、こっちの現実感覚がいまひとつ正常に機能しなくなっている。

 裏口入学などという昭和の時代にすっかり滅亡したはずの醜悪な不正が行われていたことに驚いていたら、なんと同じ大学で、今度は入学試験の点数データが改竄されていたことが発覚してしまう。

 ちなみに申し上げれば、裏口入学が、入試制度の片隅に小さな穴があいていたことを物語る例外的な不祥事であることに比べて、試験データの改竄は、入学試験というシステムの前提が真っ赤なウソであったことを意味する、より根源的で致命的なスキャンダルだ。2つの事件を同一の基準で語ることはできない。お釣りをごまかした店員の事件と、組織的な偽造紙幣の流通の経済へのインパクトの大きさを同列に並べることができないのと同じことだ。

 行政文書や大学入試の点数は、この世界の公正さを担保している「基準」というか、「スタンダード」そのものだ。

 偽造された人事採用資料をもとに運営されている役所が信頼できないのは、デタラメな強度計算をもとに設計された橋が安心して渡ることのできない建築物であるのと同じで、われわれは、自分たちが依って立つ基盤となるデータについてはどこまでも厳密に構えなければならないはずなのだ。

 こういうものが書き換えられると、社会の前提が崩壊する。

 たとえばの話、紙幣の額面が消しゴムで消して書き換え可能になったら、私たちの信用経済はその日のうちに崩壊することになると思うのだが、お役所が決裁した文書や、入試問題の答案の点数が自在に改竄可能な設定になったら、われわれの社会を下支えしている、人間の知的能力への信奉や、文書記録への信頼といった、ホワイトカラーの信仰は崩壊に瀕する。

 でもって、今度は、国家公務員の採用にあたって、お国が採用基準をごまかしていることが発覚してしまった。しかもその採用不正はどうやら複数の省庁で42年間にわたって続けられてきた、お役所ぐるみというよりは、全国民が共犯だったと言っても良い規模での日常的な不正だった。

 これは、単に書類をごまかしたというだけの話ではない。
 記録という公務員にとって命の次に大切なはずのデータを冒涜していたというだけの問題でもない。

 具体的な次元では、障害者の雇用機会を奪い、本来なら雇用されて報酬を得るはずだった何千人何万人の人間から生活の基盤と社会的評価の基礎を不当に奪い去っていたということだ。

 しかも、この官公庁による人事採用思想は「生産性」という呪いの言葉に強い説得力を与えてしまっている。
 個人的には、この点が最もひどいと思っている。

 つまり、この度の公的な機関による組織的な障害者排除事案は、杉田議員がうっかり漏らした「生産性」という言葉が、彼女の個人的な妄言ではなくて、より広範な人々によって共有されている21世紀の時代思潮の顕現であり、40年以上も続くわが国の伝統的な人事管理思想の根本を説明する用語であることを証拠立てる出来事だったということだ。

 われわれは、「生産性」によって人間を評価し、雇用し、管理し、場合によっては排除し、廃棄排斥することを厭わない考え方に基づいて、集団を指揮し、企業を運営し、国策を立案し、憲法を改定しようとしている。

 このことに私は恐怖感を覚えている。