吹奏楽部のメンバーがコンテスト参加を断念して甲子園に行ったことが、本人たちにとって良いことだったのかどうかは、周囲の人間が簡単に判断して良いことではない。
本人たちにとっても、一人ひとりの部員ごとに、それぞれ微妙に感じるところが違うだろうし、一人の部員の中でも、現在と10年後では違う答えにたどり着くことになるかもしれない。
コンテストで自分たちの力を試すのもひとつの青春だし、ほかの生徒たちと一緒に、母校の野球部を応援する旅に出ることもまた、それはそれで得難い経験ではある。どちらが尊いのかはわからない。
ただ、私があくまでも外部の人間として、過去の甲子園記事を読んできた経験を含めたうえで思うのは、甲子園を扱った記事には「甲子園を頂点とする青春」というはるか戦前から牢固として動かない話型があって、その黄金の物語の中では、個々の生徒の生活や思いは、すべて、「甲子園」という巨大な塔を構成するひとつのレンガの位置に落とし込まれるということだ。
今回の吹奏楽部の記事について言うなら、このお話は「甲子園のために自分たちの部活を犠牲にした子供たちのやせ我慢の夏」ぐらいなエピソードとして、暑苦しい観戦記事の箸休めに消費される。そう考えてみると、「これ、美談なのか?」という声がネット上に渦巻いたのも、当然といえば当然の反応だったと思う。
甲子園の物語は、怪物投手や、天才スラッガーのエピソードだけでは完成しない。
戦記文学の行間は、むしろ銃後のエピソードが充実しないと期待通りのセンチメントに到達することができない。
だからこそ、甲子園大会が近づく度に、毎度毎度、進学クラスをあきらめたマネージャーや、負傷したキャプテンや、志半ばで病に倒れた監督や、仕事をやめて子供の送り迎えをする父親や、一年中一日の休日も無く球児たちの面倒をみる学生寮のおばさんといった雑多な人々の「尊い犠牲」のストーリーが、ぽつりぽつりと紙面に紹介されるのであって、そんなふうにしてグラウンドを見つめるファンの目が、塁上に立つランナーや、守備位置でサインを確認している内野手の背後に、それらのあまたのグラウンドに立てない協力者の幻影を見るからこそ、甲子園の物語は、適切な湿り気を確保できる。埃っぽい8月のグラウンドに夕立と虹が必要なように、球児の青春には、犠牲の物語が不可欠なのである。
今回の五輪競技で、私がナマで見た中では、シンクロナイズドスイミング、女子デュエット決勝で銅メダルを獲得した乾友紀子・三井梨紗子組の話が印象的だった。
メダル獲得直後のインタビューで乾友紀子選手は、
「毎日が地獄のような日々で……もう無理だと思うこともあった」
と硬い表情で言っていた。が、最後には、
「先生について来て良かった。努力が報われた」
と井村雅代ヘッドコーチへの感謝の言葉を述べている。
おそらく、乾選手は、心のままに思ったことを言っただけなのだと思うのだが、彼女の言葉は、結果として、見事なばかりに、日本のスポーツの美学を体現している。
どういうことなのかというと、甲子園の美談も、オリンピックの勝利インタビューも、結局のところ「栄光の前には地獄が必要で、飛躍のためには逆境が必須で、勝利の影には犠牲が不可欠だ」という、ぞっとするような勤勉哲学に着地しているということだ。
こういったあたりの設定を見る限り、われわれの社会は丸ごとブラック企業なのだと考えざるを得ない。
スポーツから伝わってくるメッセージは、本来なら、肉体を躍動させる喜びや、ゲームに没入することの楽しさであるはずだと思うのだが、夏休みの競技中継から伝わってくるのは、犠牲の尊さと、忍耐の重要さと、私心を捨てて反復練習に従事することの美しさばかりだったりする。
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