私だってギャラをもらってスタジオのブーメラン型のテーブルに座らされれば、きっと両手をバウバウ広げて拍手をしつつ

「感動しましたぁー」

 とか

「やったぁあああ」

 とかなんとか、お人好しの感激屋みたいなコメントを配給することになると思う。なんとなれば、テレビカメラを向けられている状態で、日本人のメダルに飛び上がって拍手せずにいることは、昼食会での部長のスピーチに頷かなかったり拍手しないことと同じく、場を支配する秩序に対する公然たる反抗だからだ。

 そんなわけで、一人ひとりのテレビ出演者が、ほんの少しずつ盛り気味に感動してみせるリアクションのウソが積み重なった結果、当日の番組として配信されるメダル歓声映像は、狂気じみた裏声と怒号のシュプレヒコールみたいな地獄絵図になるわけで、寝起きのテレビ視聴者たる私は、毎朝、そのうさんくささに辟易している次第です。

 スポーツに関わる時、あるいは、「祖国」なり「母校」なりという枠組みを背負って何かに取り組む時、と、もう少し枠を広げた言い方をしても同じことなのだが、そういうふうにある同質的な集団の一部として振る舞う時、わたくしども日本人は、ちょっと異様な集団になる、と私は考えている。

 たとえば、リオ時間8月8日に、男子柔道73キロ級で見事金メダルを獲得した大野将平選手について、翌日の毎日新聞は、

五輪柔道 大野、逆境バネに 体罰問題乗り越え
 と題する記事を掲載した。

 ここで言う「逆境」とは、大野選手が天理大の主将(4年生)だった2013年に発覚した同大学の暴行事件と、それに対する処分(30日間の停学、全日本柔道連盟からの3カ月間の登録停止)を指しているのだが、記録を見る限り、この「暴行」事件に関して、大野選手は「加害者」の立場だ。加害者だからこそ処分を受けたということになっている。

 とすると、被害者ならともかく、加害者の立場にあるものを指して、「逆境をバネに」という言い方をするのは、日本語としておかしい。

 「体罰問題乗り越え」という書き方にも、違和感を感じないわけにはいかない。

 この時の天理大の暴行事件を掘り下げて行くと、いくつか「大野主将が罪をかぶった形で事件を処理した」ことを匂わせるソースにたどり着く。

 仮に、それらのソースに書いてあるテキストの憶測が事実で、「内定先や就職先から考えてよりやっかいな立場に立たされかねない同僚部員や先輩の境遇を慮って、大野選手が、無実であるにもかかわらず罪を一人で肩代わりした」というストーリーがあの暴行事件の真相だったのだとすると、今度は、当時の事件処理の仕方がまるごと不正でしたということになる。

 これはこれで大問題だ。
 まあどっちにしても、暴行事件は、「美談」ではない。

 金メダリストの来歴を紹介する記事を書くのであっても、「逆境をバネに」という書き方ではスジが通らない。
 「不祥事から立ち直って」あるいは「反省から再出発して」ぐらいにしておかないと、暴行事件の被害者に対しても会わせる顔がないはずだ。

 が、金メダルは、美談を要求する。
 メダルを取った人間の過去は、美しく修飾されなければならない、と、記者は、そういう圧力の中で記事を書かねばならない。