しかし、それは私の罪だろうか。すべての子供は、自分が壁の中のレンガの一つに過ぎないことを12歳の段階で思い知るべきなのだろうか。

 卒業式には「呼びかけ」というお約束の出し物があった。
 これは、私の世代の者が小中学生だった時代に全国的に蔓延していた演出手法で、要は子供たちがユニゾンでポエムみたいなものを読み上げる集団朗読劇みたいなものだ。

 私が通っていた小学校では、三学期に入ると、在校生と卒業生が、それぞれに用意された原稿を読み上げるべく練習を繰り返すことが習慣化していた。

 「いつもやさしく遊んでくれたおにいさんおねえさん(おにいさん、おねえさん)」
 「ともに汗を流したクラブ活動(くらぶかつどう)」
 「応援に競技にちからのはいった運動会(うんどうかい)」

 てな調子で、ポエムを朗読していたオダジマの気持ちを想像してみてほしい。
 私は、本当に心の底からその種のイベントを呪っていた。

 ところが、この世にも見え透いた集団子供朗読ポエムは、まんまと来賓を感動させた。

 卒業式に列席している保護者や来賓の大人たちが、ハンカチを取り出して涙を拭う様子を眺めながら、私は、コントロールされた感動というものの安っぽさに思い至らずにはおれなかった。

 「つまりこの呼びかけっていうのも、来賓のための出し物なわけだよな?」
 「どうしてほかならぬ卒業生が観客のためにサービスをしなきゃならないんだ?」
 「卒業式って、誰のための儀式なんだろうか」

 たしかに私はひねくれた子供だったが、では、あの「呼びかけ」のポエムでうっかり涙を絞りとられていた大人こそが素直で理想的な日本人だったのだろうか。

 いや、特にここで答えを求めているわけではない。先に進もう。

 基本的には楽しみだった遠足や社会見学にも、必ず「同調」の試練は含まれていた。
 校外活動の間、子供たちは列を乱してはならなかったし、勝手な行動を戒められていた。
 で、私はといえば、学校側の想定する枠組みからいちいちはみ出しては叱責されるタイプの典型的な「手のかかる」児童だった。

 これも大人になった目で振り返ってみれば簡単な話で、教師の側から見れば、遠足にせよ工場見学にせよ、校外に引率する児童の安全を確保するためには、教室内以上に徹底した「秩序」と「同調」を求めなければならなかったわけで、その当然の設定を、当時の私が、せっかく学校の外に出られたのに、なぜ自由を束縛するのだろうかと、どうしても納得できなかっただけのことだ。

 多くの同級生は、十分に遠足を楽しんでいた。
 もちろん、運動会もだ。

 10年ほど前のことだが、小学校時代の同級生の何人かと話をする機会があった。その時、彼らは運動会の思い出として、あろうことか、あの「グリーンスリーブス」を懐かしがっていた。

 私は驚愕した。

 「おい、ウソだろ? あの地獄のバカ踊りの何が楽しかったんだ?」
 「えっ? だってずいぶん練習したじゃん」
 「だから、その練習がバカバカしくてつらかったっていう話じゃないか」
 「いや、そりゃ最初のうちはキツかったかもしれないけどさ」
 「なんていうのか、達成感があったぞ」
 「そうそう達成感な」
 「ウソだろ? おまえら本気か?」

 いや、ウソではないのだ。本気なのだ。そして、おかしいのはたぶん私の方なのだ。
 ずっと昔に味わった試練や苦労を、楽しい記憶として思い出すのが普通の日本人なのだ。
 それどころか、試練の真っ只中にあってさえ、いつしかそれを仲間と一緒に分かち合う娯楽として享受できるようでなければ、将来まともな社会人にはなれないのだ。