
米国の新聞が経営難に苦しんでいるようだ。
読売新聞が7月24日に
「米新聞社困窮、一夜で半数リストラ...全米に拡大」
という見出しで記事を掲載している。
現在、当該の記事は有料購読者以外は読めない。
リンク先で、同じ出来事を扱った別の記事を読むことができる(こちら)。
こちらはオンライン記事らしく
「苦境に立つアメリカの新聞業界 オンラインに望み」
という見出しを打っている。
内容はいずれも、米ニューヨークの主要タブロイド紙である「ニューヨーク・デイリー・ニューズ」が、7月の23日に編集部門約80人のうち、編集長を含め半数の40人余りに対してレイオフを決行した事実とともに、全米の新聞が多かれ少なかれ同様の苦境にあることを伝えるものだ。
私は、読売新聞の紙面の行間から、「われわれも同じだ」といううめき声のようなものを聞き取らずにおれなかった。
苦しいのは読売だけではない。
日本の新聞社は、どこであれ米国の新聞が立たされているのとそんなに変わらない苦境の中で、ゆるやかに窒息しつつある。
本業以外の収入や、長年にわたって蓄積してきた土地や資産のやりくりでなんとかもちこたえてはいるものの、どこの新聞社も、この20年ほど、販売部数と広告収入の減少に歯止めがかからない状況下で経営戦略の見直しを迫られている。
このたび、読売新聞が米国の事情として新聞社の困窮ぶりを伝えた背景には、自分たちが日々直面している危機への目配りがあったはずだ。いずれ近いうちに、日本の新聞各社も、現在米国の新聞が断行しているのと同じような思い切ったリストラに踏み切らざるを得なくなるはずだ。記事の行間にただよっていた沈痛さは、記者個人の観察というよりは、新聞業界人全般が抱いている不安を反映したものなのだと思う。
今回は、新聞の話をする。
なにかと暗い話題の多い新聞に関して、あらためてその現状と未来を考えることで、なんとか打開に至る道を見つけることができればありがたいと思っている。
そんな道は無いよ、ということなら、われわれは無い道を歩く方法を考えなければならない。
どっちにしても楽な仕事ではないわけだが、戻る道がないことだけははっきりしている。
7月27日の午後、麻生太郎財務大臣が財務省の幹部人事を発表したというニュースが伝えられた。
テレビの映像を見ていて私が強い印象を抱いたのは、伝えられている人事の内容そのものよりも、麻生大臣の横柄な態度に対してだった。
大臣は、記者に
「大臣の認識としても今回の人事はベストだということでよろしいでしょうか」
と問われて
「思ったから私が任命した。忘れんでください。人事権はあなたにあるんじゃない。オレにあるんだから」
と答えている。
なんともあきれた言いざまだ。
が、見て腹が立つのかというと、意外にそうでもなかった。
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