曽野綾子さんは、『私の危険な本音』(青志社)という本を出版していることでも分かる通り、「本音」を売り物にしている発言者だ。

 だから、反発する人もいるし、アタマから嫌っている人もたくさんいるわけなのだが、その一方で、「お花畑の偽善者が言えずにいる冷徹な本音を正面切って言う、勇気ある直言者」として、人気を博してもいる。だからこそ、彼女は、『人間にとって成熟とは何か』というベストセラーを出している。

 なんというのか、彼女の言う、「社会に役立たなくなった老人は、ドクターヘリを利用すべきではない」であったり、「女性社員は子供が生まれたら会社をお辞めなさい」といった「残酷」な本音には、一定の強固な需要があるということだ。

 その需要は、どんなところからやってくるのだろうか。

 思うに、彼女の「本音」を称揚する人々は、彼女が残酷なことを言うのは、「彼女が残酷な人間だからだ」とは考えていない。曽野綾子さんの読者は、彼女が残酷な本音を言うのは、何よりも偽善を憎み不都合であれ残酷であれ、目の前にあるありのままの真実を、あるがままに伝えようとする勇気ある正直な人間だからだというふうに考えている。

 で、そういう人たちにとって、「社会にとって役に立たなくなった人間は、社会から身を引くべきだ」という思想は、残酷である以上に、「真実」なのだ。

 とすれば、それら「曽野綾子さんが言う、この世の重いけれども直視しなければならない“真実”」は、植松容疑者の言う、「障害者は不幸を作ることしかできない」という断言と、そんな遠いものではない。

 植松容疑者のように、あえて障害者を殺すという積極的な行動に出ることと、老人にドクターヘリの不使用を促して、やんわりと不作為の死を促すことの間には、もちろん、巨大な違いがあるし、明らかな犯罪である前者と、単に底意地の悪い忠告に過ぎない後者を同一視することは断じてできない。

 しかし、いずれも、人間の価値を「社会のために役立つかどうか」で評価するという前提を共有している点では同じだ。

 彼らは、「人間の生存を保障するために社会が設計されている」というふうには考えない。「社会を存立せしめるために人間の生存が許されている」というふうに考える。

 とすると、社会に役立つパーツとしての役割を終えた老人や、物理的な制約から社会に役立つことができない状態にある病人や、負傷者や、はじめから社会の役に立つことの難しい障害者は、社会に負担をかけないためにも、なるべく早く退場すべきだというお話になる。

 効率性を考えずに社会を維持することは不可能だ。
 手前勝手に非効率な要求をする人間のわがままを、無条件に受け入れることができないのは当然だ。
 だがそれは、「効率を理由に、他人に、社会からの退場を宣告していい」と考えることとは、似て非なるものだ。

 そもそも、人間の幸福度を、他人が判断することはできない。
 以前、尊厳死の問題に取り組んでいる人に聞いた話なのだが、筋萎縮性側索硬化症(ALS)のような難病で寝たきりになった人たちに、

「あなたは、いま、幸せですか?」

 と尋ねると、意外なほど多くの患者が(たしか8割以上と言っていた気がする)

「幸せだ」

 と答えるのだという。
 個々の人間の幸福感や満足感は、本人にしかわからない部分を多く持っている。